1章 果てない海と 空の青(2)
「あのさー……午後の授業、サボってよかったのかな」
芝生に寝転んだまま、朋夏が気だるい声を上げた。
「なんだよ、いきなり」
「だって気になるじゃない。先生怒ってないかなーとか、単位大丈夫なのかなー、とか」
「きょうは会長が部活動ってことで、きちんと学校に申請しているんだ。公式にはサボリじゃない」
僕たちが所属するのは「宇宙科学会」という、文科系の部だ。といっても会員はわずか四人、これまで宇宙科学らしい活動をしたことがない。
きょうも会長は昼休みになって、僕たちに強引に午後の授業をサボらせることを宣言した挙句、学校から鉄道と徒歩で三十分かかる旧校舎まで呼び出しながら、自分はどこかに消えてしまった。それで僕は、元グラウンドの芝生で昼寝を決め込んだ。
朋夏は勉強は苦手だが、授業はきちんと出ている。むしろ危ないのは僕の方だ。高校入学と同時に向学心が乏しくなり、二年生になってからサボる時間が格段に増えている。
「そーなの? じゃあ、いっか」
朋夏は、昔からお気楽な奴だった。
「でも、そろそろ戻らない? 次の電車逃がすと、夕陽が傾くよ」
「そうだな。会長がどこ行ったか、聞いてないか?」
「知らない。そういえば、集合時間とかも聞いてなかったね」
ふだんは縛りが少なくてテキトーにやってられる部だから気楽だが、こういう時のてんでバラバラさ加減は、いささか面倒でもある。
「携帯で二人の位置、探せるよな」
「湖景(こかげ)ちゃんは海だよ。あたし電話してみる。会長はどうせ電話に出ないから、直接呼びに行ったほうがいいかもね」
朋夏が携帯電話をたたくと、意外にも近くで着信音がした。上体を起こすと、二十メートルほど離れた芝生の陰からひょっこりと、大きな麦藁帽子に半分以上隠れた小さな頭が現れた。
「おーい、湖景ちゃん。満足したかい?」
僕と朋夏がいる芝生の端から百メートルほど斜面を降りて国道を越えれば、海に出る。一年生の津屋崎湖景ちゃんは、グラウンドから海へと続くなだらかな斜面を、息を切らしながら上がってきた。整った小顔がいつみてもかわいいが、きょうは何かアンバランスな印象を受ける。
「平山先輩、きょうは海に連れてきてくれて、ありがとうございました。おさかなさんやカニさんを見られて、とっても楽しかったです」
高校生としてはちょっと子供っぽい言葉は、いつものことだ。
「え、ホントに? 持って帰ったら、食べられるかな?」
カニに反応したのは、朋夏だ。
「どうでしょう……イソガニとかオウギガニとか、食用なのでしょうか」
「んー、あれはちっちゃいな。お味噌汁の出汁くらいにしか使えないかも」
なぜ食欲に直結するかね、わが幼馴染みよ。
「空太、今度ここでサカナ釣って、学校で海産鍋パーティーでもやろうか。また夜に忍び込んでさ」
「お前、この前の焼き肉事件で懲りてなかったのか?」
二週間前、宇宙科学会は天体観測を名目に、深夜の学校屋上にコンロを持ち込み、鍋パーティーを開催した。ところが朋夏が、焼き肉と同時にどこからか持ち込んだ業務用の巨大鉄板が学校の電気設備の規格外品だったらしく、翌朝に一時全校が停電するという、恐ろしい事件が起きた。
会長と宇宙科学会の名前は公然の噂だが、公式には首謀者不明となっている。僕らや会長が頑として事実を認めなかったのは自分の身が心配だからではなく、内気で純真な新入生の湖景ちゃんを処分から守るためだった。
「海に来たの、初めてなんです」
「え?」
湖景ちゃんの言葉に、僕と朋夏はきょとんとした。
「磯の香りって、こんな感じだったんですね。あと、風も気持ちいいです。水面に反射した光もまぶしくて、波の音とかも聞いていると、とても穏やかな気持ちになります。磯だまりには、いろんな生き物がいるんだなあって。データベースだけじゃわからない世界って、たくさんあるんですね」
いつもは口数の少ない湖景ちゃんが、いつになく饒舌だ。それだけで、ここに来てよかったと思う。
「あんまり無理すると、日射病になっちまうぞ」
「大丈夫ですよ。会長さんが麦藁帽子を貸してくれましたから」
目の前に立った少女の姿を見て、違和感の正体が、麦藁帽子とセーラー服がまったく合っていないことが原因だと、ようやく気づいた。
「そういえば、なんで麦藁帽子が宇宙科学会にあったんだろ」
朋夏が口をはさんだ。
「宇宙科学会と麦藁帽子って接点ないよね?」
朋夏の疑問も理解できるが、会長の真意とか、宇宙科学会の存在意義とか、考えるだけ無駄だと思う。
唯一の三年生である宇宙科学会長。流れる黒髪が印象的な学園一の美人だが、同時に意外性という点で、会長の右に出る人はいない。
「ねえ空太、夏になったら、みんなで泳ぎに来ない? きっとここ、人が少ないし、穴場だよ。湖景ちゃんも、一緒に来ようよ!」
「いいですけど……あの、私、泳げないんですけど、大丈夫でしょうか?」
「問題ないない。泳げないなら、あたしが教えてあげるよ」
確かに、朋夏は水泳も強い。二十五メートルプールなら、スイスイと何往復もしてしまう。しかも、どんなスポーツでもコツを教えるのが上手い。そして、後輩の面倒見がいい。
「はあ、宮前先輩……運動が万能なんですね。うらやましいです」
「実はあたしも、泳ぎは子供のころに空太に教えてもらったんだけどさ」
「宮前先輩の先生ですか? すごいです、平山先輩!」
キラキラした後輩の視線が、気持ちよかった。
「でも、今は朋夏の方がずっと上だから。そんな尊敬するような目で見ないでください」
「あっ、そういえば空太と帰ろうかって相談してたんだ」
後輩の羨望の眼差しに浸っていたいのに、こういう時だけ時間に気づくのが、朋夏という奴だ。
「湖景ちゃん、会長どこにいるか知ってる?」
「いいえ、ごめんなさい」
「いいって。呼んでくるから。朋夏とそこで待ってて」
僕は、制服についた芝を払い落とした。
古賀沙夜子会長。あの人は今、何を考えて一人でいるのだろう。