9章 想いは一つの 羽となり(7)
僕が格納庫に戻った時には、午後六時を回っていた。会長と湖景ちゃんがいて、機体のそばでひざを抱えて座っている名香野先輩を、心配そうに見つめている。教官は壁を背にして、腕を組んだまま無言で立っていた。
教官はどうやら、力学系に戻す命令をしなかったらしい。そのことに感謝はしたが、もう機体の改造や調整に必要な時間は、とっくに過ぎてしまった。諦めと停滞感が、格納庫の空気に満ちている。
「さて、ソラくんも戻ったことだし。約束通り、話し合いをしようかー」
会長の声も、心なしか力がない。最初に前に出たのは、湖景ちゃんだ。
「姉さん。私たちに、姉さんの仕事を手伝わせてください」
「もう……無理よ。時間も過ぎてしまったから。あとは私が一人でなんとかするから。明日までに、なんとかする」
「電気もない格納庫で、一人で何をするんですか?」
「懐中電灯くらい、コンビニにあるわよ」
消え入りそうで、投げやりな声だった。
「私、辛いんです……姉さんが苦しんでいるのを、見ているだけのことが」
湖景ちゃんの目に、再び涙の塊がたまり始めていた。
「湖景、さっきは本当にごめん。ひどいこと、言っちゃった。姉さんを許してくれる?」
「当たり前です。そんなことより……」
「じゃあ、あとは私の仕事だから。あなたにはあなたの仕事が……」
「もうそんな区別、どうでもいいじゃないですか!」
湖景ちゃんが、びっくりするくらいの声で気色ばんだ。
「私だったら、困った時はすぐに誰かに助けて欲しいと思います。今までずっと、私は誰かに支えられて生きてきました」
湖景ちゃんの「生きてきた」という台詞に、悲壮感がこもっていた。
「そんな自分が嫌です。姉さんは違う。一人で何でもできる姉さんを尊敬します……でも、そんなダメな私でも、姉さんを助けたいという気持ちは持っているんです!」
そこまで一気に話すと、湖景ちゃんは額がひざにつきそうになるくらいに頭を下げた。
「お願いです、姉さん。今からでも、大好きな姉さんの仕事を手伝わせてください……」
だが、名香野先輩はその姿を見ても、ため息を一つついただけだった。
「平山君と示し合わせたの?」
「違いますよ」
答えたのは僕だ。ここであらぬ誤解を受けて、また会話を迷宮に入らせるわけにはいかない。
「たまたま僕と考えが同じだっただけです。僕も湖景ちゃんも、真剣にお願いしているんです。先輩が仕事に真剣に取り組むのと、同じように」
名香野先輩は、睫毛を伏せてしまった。今までは何を考えているのかわからなかったが、上村と話した今はわかる気がする。先輩は自分が抱えている仕事の大きさに気づいていないのだ。僕は唾を飲みこんだ。
「先輩。この際、はっきり言わせてもらいます」
「な、なによ……」
誰よりも不満そうな名香野先輩の視線を、僕は正面から受け止めた。
「先輩はいつも人を助けてばかりです。ひどいですよ。少しは人に助けられる努力もしてください」
「な……」
ひどい、と言われて先輩は狼狽した。
「だいたいですね、宇宙科学会だってそうなんです。こんないい加減な学会、潰せばよかったんです。それを助けたりしたから、こんなことになったんだ」
先輩が絶句している。僕は勢いを落とさないようにまくしたてた。
「そして僕たちが助けて欲しいと言ったら、頼まれるままに引き受けた……先輩、どうしてそんなにいつもお人好しなんですか?」
「あはは、確かにねー」
先輩が会長をにらんだが、力がない。
「それでも普通、中央執行委員長とのかけ持ちなんて絶対無理なんですよ。それなのに委員会記録の整理とか一人で請け負って。僕と朋夏の勉強の面倒を見て、体調まで崩して。いい加減、人を助けるのはやめてください!」
「そんな……私は、何も悪いこと……」
「悪いですよ!」
僕は叫んだ。
「先輩は自分がどれだけ大変な仕事をしているのか、わかっていない。どれだけ能力があるのか、わかっていない。仕事をしているのに、自分だけ仕事をしていないかのように考えて行動する。はっきり言います。悪いです」
先輩は押し黙った。不貞腐れているのではなく、心底驚いたという表情だ。上村の読み通り、本当に自覚がないのだ。
「普通なら一人ではできない仕事を、先輩はやっているんです。チームと言ってわからなければ、僕たちはLMG大会という未踏峰に挑む登山隊と言い換えますよ。その中で先輩は重い荷物をずっと一人で運んで、人の荷物も何でも引き取って、八合目まで登って動けなくなった。そういう時に周囲に協力をお願いしなかったらどうなります? 結局全員遭難するんです。だったら初めから協力しない方がマシだった。そうでしょ?」
「ん、そう思うよー」
「思います、姉さん」
みんなの表情を見る名香野先輩の視線が、うろたえ始めた。
「そんな……みんなで、よってたかって……私から、仕事を奪おうと……」
「違います、先輩」
先輩は顔を真っ赤にして、また踏ん張った。僕は焦った。本当に強い人だった。いい加減、荷物を降ろしてくれてもよさそうなのに。
「私は……自分一人の責任も果たせず……委員会を追い出された……だからこの仕事に賭けるって、誓ったのに……」
先輩の声にまた涙が混じり始めた。そう、名香野先輩を頑なにするもう一つの原因が、あのクーデターにある。僕は先輩の前に歩み寄り、その両手を握った。
「先輩は、この仕事に賭けてくれました。そのことはこの両手が教えてくれています」
僕と握手する時に差し出された先輩の指は、か細く美しかった。今は何度も握った工具のお陰で、タコと傷で赤くなっている。
「そしてこれからも、この仕事に賭けてください。僕からのお願いです。ただし、ここからは僕たちと、仕事を共有させてください。先輩は先輩の責任を、納得いくまで果たしてください。ただ僕たちが一緒に考える、それだけのことです」
「共有……」
「僕たちは先輩から仕事を奪うんじゃありません。僕たちは、いつでも先輩の味方ですよ」
「……でも機体の軽量化は……私以外の人には……」
「いやー、お待たせー! どう、飛行機は順調?」
突然、それまでの雰囲気をぶっ壊す場違いな声が格納庫に響き、僕は思わず舌打ちをした。そういえば朋夏のことをすっかり忘れていた。この大事な時に、一人でどこに行っていたのか。まったくがさつで空気の読めない……
「……?!」
全員の息を呑む声が本当に聞こえた。そして僕も声の主を振り返って……あきれた。
「あれれ、どうしたの、みんな。顔色、悪いよ」
「……僕たちの顔色よりお前の頭だろう! なんだよ、それ!」
朋夏のトレードマークだったポニーテールが、すっかりなくなっていた。それだけではない。髪は一センチほど残しただけの全面丸刈りだ。まるで少年のような外見だが、目鼻は疑いなく朋夏だ。
「あぅあぅ」
湖景ちゃんが、空気の足りない金魚みたいに口をパクパクさせている。
「やだなー、そんな似合わない?」
似合うとか似合わないとかいう問題じゃないだろう。
「お前……ひょっとして?」
「うん。あたしを助けてくれた先輩が困っているから、何かできないかと思って。でもパイロットってやることないんだよねー。やるなら軽量化だから、髪切るしかないんだよ」
「お前……それで本当にいいのか?」
体操部をやめて、大事に伸ばしていた髪じゃなかったのか。
「勝つためなら当然っしょ」
けろりとしている。そうだ、朋夏は体育会なのだ。根っからの……
「ちょっと……何か言ってよ、みんな。よくやったなーとか、すごいなーとか」
「お前……馬鹿だろ」
その刹那に朋夏のヘッドロックが完璧に決まり、ギリギリと締め上げられた。
「馬鹿馬鹿言うなー! これでもあたし、自分の頭で考えたんだぞ!」
「ギブギブギブ! やめてくれ、頭が割れる!」
「あはは。あっははははは。トモちゃん、最高!」
お腹を抱えて笑い声を上げたのは、会長だ。その声にすっかり場の緊張感が切れてしまった。
「……宮前さん。似合うわよ」
思わず表情を緩めた名香野先輩に、ずっと黙っていた教官が歩み寄った。
「年貢の納め時だな、名香野」
「……」
「機体の軽量化は名香野だけの仕事ではない。それは思い上がりというものだ。宮前はとっくに問題を共有化していた。お前の考えている責任の壁もプライドも、何もかも飛び越えている。それこそが、チームの真髄だ。違うか?」
「……はい」
名香野先輩が、たっぷり十秒ほど待ってから、こくりとうなずいた。そして、自分のミニコンをみんなの前に差し出した。
「……お願い、します……私を、助けて、ください……」
「了解!」
僕と湖景ちゃんと会長が、同時に叫んだ。この一言が、この人にはとてつもなく勇気のいる一歩だったのだ。人というのはわからない。優秀だと思っていた人が、普通の人がなんでもないと思っている障害につまずいたり、意固地になったりするのだ。
朋夏が一人、「あれー、もうあたしに注目してくれないの?」と不満そうな声を上げた。
「何言ってるんだ。きょう一番の仕事をしたのは朋夏だよ、馬鹿」
「あ、また馬鹿って言った!」
さっき外したばかりのヘッドロックが、またかかった。悶絶する僕の姿を、今度は全員が笑ってくれた。