二次創作小説「水平線の、その先へ」

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16章 輝く未来の 懸け橋に(4)

 

「僕の誤解はあるかもしれません。でもそうなら、はっきりそう仰ってください。自分から何も言わずに、人に理解されることなんてできません」

「私は人に理解されることなんて、求めていないんだよ」

 会長が搾り出すように、言葉を繰り出し始めた。

「ソラくん、私はね……この内浜学園高等部が私の人生で少しだけ自由になれる……たった一度の貴重な三年間なんだよ……」

 自由になれる? たった一度?

「私は小さい頃から、父の言う通りに生きてきた。それはきっと、これから先も変わらないんだよ」

 そういえば教官が以前、似たようなことを言っていた。

「父は私に、どう生きるべきかを教えてくれた。この社会で競争に勝つことがいかに大事か、そして負けることがいかに惨めなのか。努力を人に見せてはいけない。誇ってもいけない。それでも乾坤一擲の勝負には、必ず勝つこと。それが私の父の教え」

 教官を修羅の道に引き込んだ、会長の父親。その厳格な姿がまたしても僕の前に立ちはだかる。

「私は父の期待に応えるように勉強し、運動もして、誰にも負けない成績を上げた。教官には、飛行機のことを一通り、たたきこまれたわ」

 目の前の海が凪いでいる。その色がいつにもまして深く、暗くなった。日が急速に陰り、大きな雲が湧き上がってくる。遠くで雷鳴が聞こえた。

「私はいつも大人であることを求められた。小学校で、もうほとんどの同級生と話が合わなくなっていた。私は行く先々で天才扱いされ、そして疎まれた。大人は私に微笑みかけ、子供の私のあら捜しをした」

 子供のあら捜し。なんて悲しい言葉だろう。

「あの子は天才だからという大人たちの声に、いつも背筋がぞくっとするような黒い感情があったの。そして私の欠点を探す。私は誰に何と言われても傷つかない心と、それを支えるプライドを作り上げるしかなかったんだ。その後ろに父がいた。父が信じてくれるなら、私は大丈夫だって」

 会長がそこで、ふうっと息をついた。

「でもだんだん、それも息苦しくなってきたの。私は父の都合のいいように生かされているだけではないかと」 

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 風が急に、冷たさを帯びて強くなる。

「本当は他の道を選ぶことだって、できたのよ。でも気づいた時には、遅かった。父の後ろ盾なしに、私は友達一人作れない人間になっていたの。私が強気でいられるのは、偉い父がいるからなの。その父がいなくなったら、私はあんな大人たちに囲まれるこの世界で生きていくことなんてできない。大人なんて、みんな嫌い。大人になっていく自分が嫌い」

 会長の瞳に宿る孤独の光。朋夏と名香野先輩は、会長が寂しがっている、と言った。

「手遅れなのは、わかっていた。それでも家を飛び出して内浜学園に行かせてもらえたのが、最後のわがまま。でも卒業後の運命を父に委ねることが、父の条件だった。私はたった三年の自由が欲しくて、悪魔との契約にサインした」

 悪魔。実の父親に使う言葉じゃない。のどがからからに渇いていく。

「ちっぽけなプライド。虚栄にまみれた自我。私は愚かな人間だわ。そして誰も信用していないの。ソラくんやヒナちゃん、トモちゃんやコカゲちゃんみたいに人をまっすぐに信じられる人が、私には本当にまぶしかった。もっとみんなと遊んでおけばよかった。もっと真面目に、真剣に遊んでおけばよかった。泳いだり、花火を見たり、空を飛んだり……」

 僕の脳裏に、いつも元気にレクレーションを楽しんでいた会長の姿が浮かんだ。学校をサボってなぜあんなに楽しい顔ができるのか、僕には不思議だった。湖景ちゃんとは違った理由で、会長は遊ぶこと、経験することに飢えていたのではないか。

「会長は高校を卒業したら……どこかの大学に行くのですか? それとも、お父さんの会社に?」

「たぶん父の望んだ人と結婚する。それで私の人生おしまい」

 ずしん、と心に重石がのしかかる。急に押しつぶされそうな圧迫感が、僕の胸に襲ってきた。

「そんな……会長の意思や生き方は、どうなるんですか?」

「そんなもの初めからないのよ。あとは父の思う通りに生きるだけ」

「そんなの、許しちゃダメだ!」

 僕は声を荒げた。だが会長は冷静だった。

「あの人のわがままじゃない……あの人や私が競争に負ければ、何千人という社員とその家族が一夜で路頭に迷うんだから」

 会長が、僕のほうに向き直った。

「背負わされた責任が、ソラくんにわかる? 現実の社会は、そういうもの。現実の競争とは、そういうもの。受験なんか、私に言わせれば競争じゃない。努力で何とでもなるから。努力したって何の保証もないものに、生きるか死ぬかを賭けるのが、社会の本当の競争」

 あの子はコンサートの演奏に、自分の生死を賭けた。ただ、両親に認めてもらいたいがために。兄弟と同じに扱って欲しいがために。それが競争。

「だから私の運命は決まっている。父には男の子がいなかった。でも父が見込んだ人と私が結婚すれば、会社はしばらく安泰。みんな幸せに生きられるのよ。私一人のわがままで、それを破壊するなんて……怖くてできない」

 瞳にまた、あの虚空が宿る。僕は何かを言わなければならない。そうしなければ、この人はいつかあの子と同じように……

「親が子供のことを考えて、親の思う通りに育てたり、経験をさせたりしようとするのは当然です。僕だって習い事をしましたから」

「その一つがバイオリン?」

「そうです。でも結局、物にならなかった。そんなものです、普通の人間は」

 普通の人間、と会長は繰り返した。

「でも会長は、自分で何でもできる。いろんな可能性があるってことじゃないですか。だったら、その人生を投げ出して欲しくない」

「私ができることはみんな父に教わったことだよ。あるいは父が大事だと言ったこと。飛行機もそう。教官に教わったこともそう」

 言葉がゆらゆらと中空を揺れて漂い、夏の夕空に消えていく。

「ソラくんだってバイオリンを投げ出したじゃない。辛い目にあって、自分のそれまでの生き方を捨てて。私が人生を投げ出して、どこが悪いの?」

 そう指摘され、僕は言葉に詰まった。

「結局ソラくんもそういう人なんだよ。期待したソラくんじゃなかった」

 あきらめたように、ため息をつく。僕は結局、この人を説得する言葉を持たないのか。

「ここにはもう私が見たソラくんはいない。責めてるんじゃない。ソラくんはソラくんだもの、変わって当然。身勝手な私が身勝手に期待しただけ」

「会長、期待って……」

「気にしないで。ソラくん。心を殺せばね、辛くなんかないんだよ。私の運命は私の運命、あなたの人生はあなたの人生」

 会長は空を見上げた。会長の視線の先でカモメが旋回しながら、長く長く空を舞っている。

「ソラくん……カモメや海鳥は、陸鳥に比べてどうしてあんなに翼が大きくて立派なのか、知っている?」

 僕は首を横に振る。

「大きな翼はね、はばたくには不利なんだよ。疲れるだけでしょ? でも海はね、嵐で波が立ってしまったら休むことができない。たまにある船とか島とかに着くまで、鳥は飛び続けるしかない……だから、はばたかないでも長く滑空できるために、大きな翼がいるんだよ。グライダーみたいにね」

 嵐にも負けず、長く、強く、空を飛ぶために作られた翼。

「会長は、そういう大きな翼が欲しかったのでしょうか」

「ソラくんは自分の行くべき道を見つけて。あなたの前には自由な空があるから。私にはないものが、あなたにはあるから。進むべき空を、自分で選んで。あなたの力で自由に大空をはばたいて……私の分まで」

「待ってください、会長!」

 長い髪が、会長の表情を隠す。まるで黒いベールで覆ったかのように。立ち去る会長の後姿に向かって伸ばした手は、虚空をつかんだ。

 青空にゆっくりと雷雲が広がっていた。いつだって楽しそうで、マイペースで、とんでもないことをやらかしてくれて、そのすべてが笑って許せて。いつだって僕たちを振り回してくれたけど、なぜか憎めなくて。僕が知っていてる、そんな会長の面影は、どこにもなかった。