7章 鎖を断ち切る 闘いは(6)
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僕たちの作った飛行機が、順調に滑走路を走り出している。いよいよテイクオフだ。ここまでは期待で胸が熱くなっていたが、急に不安に襲われた。本当に飛ぶのか。本当に安全なのか。思わず、拳を握っていた。
右隣で教官が、じっと飛行機を見つめている。花見と会長も沈黙している。朋夏の飛行機は、僕たちの目の前を通過し速度を上げていく。
「まもなく離陸可能速度」
ミニコンのスクリーンを見つめていた湖景ちゃんが叫んだ。すでに機体の後部は浮いている。僕は心の中で呼びかけていた。がんばれ朋夏、がんばれ……
「あれだとダメ」
冷水を浴びせたように、会長が言った。機体が上下に揺れて、車輪が地面を蹴ってはつかむ。揚力をつかまえきれていない。トラブルが発生したのか?
教官が無線機のマイクに向けて手を伸ばそうとした刹那、後ろにいた花見が僕を押しのけるように突進してきて、マイクを奪った。
「操縦桿の引きが早い。まっすぐに戻して、五つ数えて!」
とたんに機体の上下動が安定した。いったん落ちかけた速度が再び上がり、見えない揚力が尾翼をゆっくりと押し上げる。
「宮前君、落ち着いていこう。プルアップ」
花見が、柔らかい声で話しかけた。その瞬間、前輪がふわりと浮いた。
「すげえ、飛んだ!」
「宮前先輩、ファイトですっ!」
「トモちゃん、がんばれー」
言いようのない感動が、頭から全身を突き抜けていった。朋夏を乗せた白鳥が、まっすぐに空へと上がっていく。僕は立ち上がり、手のひらを伸ばして空を透かしてみた。
どこまでも青く、吸い込まれそうな空。
会長の姿を溶け込ませながら、魔法にかかった六月の空。
あれから一月、僕たちはついに、ここまで来た。ゆっくりと手を下ろすと、朋夏の操縦する飛行機が指の隙間から見えた。僕たちの翼は夏の陽光に、美しくきらめいている。
「宮前、時計を見て十五秒後に旋回に入れ。少し離陸に時間がかかった。落ち着いて、ゆっくり回れ」
「了解」
教官に指示に対する朋夏の回答は短い。やがて飛行機が右に傾き、旋回を始めた。翼が傾き、コックピットに見える黒い陰。あれが朋夏で、朋夏を支える翼を作ったのは僕たちだ。
飛行機が旋回を終え、僕たちの頭上を反対方向に通り過ぎる。その時には当初の興奮が醒めて、再び心臓が冷えてきた。時折、飛行機がふらつくように揺れる。
「宮前先輩、挙動が安定しませんね」
「上空は風があるみたいだねー。次はパラシュートが必要かもー」
まったく、見ている方は生きた心地がしない。飛行機を作る前はパイロットなんて危険なことをやるのは御免だったが、こうして地面で見ていると自分が操縦している方が下手な心配をしなくていいのではないか、という気がしてくる。
「教官、大丈夫なんですか?」
「たいした風ではないが、やはりモグラとは勝手が違うからな。宮前が新しい機体に慣れていないのも原因だ。訓練を積めば直せるだろう」
その時、花見が呟いた。
「あの機体……」
「ん? 花見、どうした?」
「いや、なんでもない」
花見はじっと機体を見つめたまま、何も言わない。たぶん致命的な問題ではないのだろう。今はとにかく、無事に着陸してくれることを祈るだけだ。
朋夏の飛行機が、二回目の旋回に入った。その時、湖景ちゃんが一オクターブ上の声で叫んだ。
「バッテリー残量、あと三十秒! 予想より早く消費しています」
血が凍った。
バッテリーが早く切れれば別滑走路への不時着も可能だったが、すでに予定の滑走路への着陸に向けた旋回に入っており、チャンスは失われている。どういうことなのか、と思わずマイクで朋夏に問い質しそうになったが、教官が制止した。
「津屋崎、平山。絶対に慌ててはいかん。地上が慌てるとパイロットが不安になる。どんな非常時でも声はゆっくり、聞き取りやすく、平静に話すことを、肝に銘じろ」
確かに、原因の分析は着陸してからでいい。朋夏の飛行機が、やけにゆっくりと旋回している。いや、本当は最初の旋回と同じスピードと旋回半径のはずなのだが、時間の進みに比べて妙にゆっくりと見えるのは、僕の内心の焦りのせいだ。
教官の言う通りだ。地上スタッフが焦って、どうする。
「宮前、予定通り滑走路の軸線に機体を合わせろ。一発勝負と思え」
「了解」
またも簡潔な回答だ。バッテリーの残量は認識しているのだろうか。やがて機体は、僕たちの真正面を向いた。花見が「うまい」と呟く。
「バッテリー、あと十秒です」
「宮前、ここまでくれば滑空で着陸できる。機体の制御に専念しろ」
今度は、返事がなかった。それだけ集中しているということだろう。
着陸もふらついたり、上下動する場面もあって冷や冷やしたが、朋夏は一発で決めた。車輪が接地してすぐ、モーター音が消える。どうやらギリギリで間に合ったらしい。目の前を通り過ぎる飛行機に向かって、僕は思わず走り出していた。
飛行機が静止し、風防がばたんと開いた。朋夏がふらつきながらも、コックピットから降りてきた。手でささえてやると、手のひらが汗で濡れていた。よほど緊張していたのだろう。とにかく無事の喜びを伝えようと、みんなの元へと歩を促した。
「よくやった、朋夏。無事生還したな」
「ひどいなー空太。ヤバいとは思ったけど、死ぬとは思わなかったよ」
笑顔を浮かべているが、それでも表情にはまだ、緊張が残っている。
「トモちゃん、お疲れ様でした。水平飛行で横風が吹いた時は、怖かったねー」
「あれ、死ぬかと思いました!」
なんか直前の台詞と、矛盾しているぞ。でも、とにかく無事に帰ってきたことだけで、僕は十分だった。
「朋夏、汗がすごいな」
「うん……十キロ走っても、こんなにならないのにね」
「これは有酸素運動の発汗じゃなくて、冷や汗だよー」
「お疲れ様でした、宮前先輩」
湖景ちゃんが芸能マネージャーのように、タオルを持って朋夏の額の汗をぬぐっていた。
「宮前、初飛行にしては上出来だった」
「は、光栄であります、教官!」
この時だけは軍隊のように、最敬礼した。
「はー。無事に終わって、よかったー」
その様子を見て、汗を拭き終わった湖景ちゃんがへなへなとひざを折った。
「あれれ、みんなどうしたの? うれしくなさそーだねー」
一人、脳天気な会長が不思議そうな顔をしている。
「こういうのは見ている方がプレッシャーがかかるんですよ」
「ふーん、そういうものなんだー」
十八年間、プレッシャーと無縁で生きてきたような人が、妙に納得したようにうなずいているが放っておこう。