1章 果てない海と 空の青(6)
文科系学会棟の外に出て、軽く空気を胸に吸い込んだ。こんな好天の日に、部室の掃除を真面目に手伝う気にはなれない。僕は中学校を卒業した時、やる気と根気を少年時代と一緒に置いてきてしまった。
中庭の大銀杏を囲む石段に、腰を下ろした。太陽が、相変わらず夏のように明るい。それも夏至に向かって、日一日と高くなっていることを実感する。
秋と違って空が澄んで見えないのは、湿気が多いせいだろうか。そんな季節感を感じられるのも、二年になってから授業を抜け出し、外で休む日が多くなっているせいでもある。
目の前で、縦に三つ積まれたダンボール箱の柱が、空中でゆらゆらと揺れていた。よく見ると、箱の下から、白いソックスをはいた二本の足が覗いている。
女子生徒にしてはずいぶん無理してるな、と思った瞬間、ダンボール箱の柱が僕に向かって、ゆっくりと飛んできた。
「危ねえ!」
避けるか止めるか、一瞬の躊躇が仇となった。
ダンボール箱の中からあふれた紙の束が頭上に降り注ぎ、視界が暗転した。痛みはなかったが、紙って重いもんだと、おかしな実感をした。
「ちょっと……大丈夫? あ、そのままじっとしてて!」
大丈夫じゃないことは、見ればわかると思うが。視界をふさぐ紙を両手で振り払った瞬間、
「馬鹿っ! そんな風に散らかさないでよ!」
と、猛然と怒られてしまった。
目の前で彼女が腰をかがめて、紙の束を拾い集めていた。「あなたが乱暴にするから、資料が泥で汚れちゃったじゃない……」とぶつぶつと不平を言う。あまりにも理不尽な言い草に、少し腹が立った。
「紙の心配をする前に、少しは人の体を心配したらどうなんだ?」
女子生徒が、きっとした表情で顔を上げた。小顔で形のいい目元が湖景ちゃんと似ていたが、違うのは明らかに大人びた雰囲気だった。反論されたらどう返そうか、と思っていたら、
「そうね……ごめんなさい。箱を崩したのは私のほうだったわ」
と、あっさりと謝られた。急に素直になられると、あの程度のことで声を荒げそうになった自分が、少し恥ずかしくなる。
「……手伝いましょうか」
再び紙を集め始めた女子生徒は無言だったので、一緒に紙を拾う態度で示すことにした。地面に転がった三つのダンボール箱に紙をばさばさと放り込むと、彼女は少し目を丸くして、僕の様子を眺めていた。
「これで、全部ですか?」
「え?……ええ、ありがとう」
「それにしても、これだけの紙を一人で運ぶのは無茶ですよ。少し、手伝いましょうか」
「そう……じゃ、お願いするわ」
僕は両手で一つ目のダンボール箱を持ち、女子生徒は二つ目の箱を抱えて、僕の箱の上に乗せた。あとは後をついていこうと思っていたら、彼女は三つ目の箱を両手で抱え上げると、一瞬のためらいもなく僕の箱の上に三段重ねにしてきた。唖然としたが、両手がふさがっていて反論どころではない。
「じゃあ、ついてきて」
手ぶらになった彼女はさっさと部室棟に向かって歩き出したが、重さはまだしも、前を見るのが難儀だった。時々体を横にしてカニ歩きのようにしながら、必死に足を進めた。
女子生徒は振り返りもせず学会棟の玄関をくぐると、階段の脇の一番近い部屋の扉を開けて待っていた。段差に注意しながら、ゆっくりと足を進める。
彼女は部屋に入ると扉を閉め、机の上をちょんちょんと指し示した。無視して床に置いてやろうかとも思ったが、おとなしく机の上に箱を置いた。
「じゃあ、紙を出して日付順に整理してくれる?」
「ちょっと……どうして、そんな」
「あなたがメチャクチャに放り込むから、資料がばらばらになっちゃったのよ。大丈夫、まだそんなに崩れていないから、すぐに済むわ」
悪びれずに平然として命令する姿に、少し気圧された。今度は彼女も紙をてきぱきと分けだしたので、終わってからまとめて文句を言おうと、黙って手伝うことにした。
「ありがとう、本当に助かったわ。いろいろお願いしちゃって、ごめんなさい。元はといえば私が悪かったんだし、謝るわ。そうだ、冷たいお茶でも飲む?」
作業が十分ほどで片づくと、僕の口から抗議の声が上がる前に、笑顔を返されてしまった。こうなると、機を逸したと思うしかない。
「あなた、何年?」
女子生徒が戸棚からコップを並べて、僕の目の前に二つ置いた。
「二年生……平山空太って、言います」
「そう、平山君ね。覚えておくわ」
それだけ言うと、ペットボトルからウーロン茶を二つのコップにそそいで、一つを一気に飲み干した。
胸のスカーフの色は赤。つまり三年生、一年上の先輩だ。わかったのはそれだけで、彼女は自分から名乗る気はなさそうだ。
「ずいぶん紙がありますけど……これ何ですか?」
仕方がないので、お茶を飲むまでの間、話題を振ることにした。
「倉庫にしまっていた過去の活動記録。委員会の作業履歴のようなものよ。行事の段取りがこうだったとか、問題が起きた時にはどう対処したとか」
この部室が中央執行委員会だったことに、ようやく思いたった。
三階建ての文化系学会棟のうち、一階は報道委員会や美化委員会など、生徒の自治委員会組織が中心に配置されている。玄関と階段に近い一番便利な場所に、中央執行委員会があるわけだ。
ちなみに宇宙科学会は三階の最奥。不便といえば不便だが、日当たり良好で屋上も近く、廊下の人通りも少ない。授業中の隠れ家としては、この上なく居心地がいい。
「資料があれば、何か疑問やトラブルが起きた時に対処しやすいでしょ? でもこのままじゃ死蔵になっちゃうから、過去の記録をデータベース化することにしたわけ」
「それにしても大量ですね」
「まあ、二十年分はあるからね。資料も捨てていかないといけないし、その前に私が何とかしないと」
「データの打ち込みなら、一年生にやらせればいいのでは?」
「みんな忙しいからね。時間を見つけて、コツコツやっているのよ。五年前までは終わったしね」
女子生徒が、少し寂しそうな顔をした。たぶん、きょうの僕と同じ調子で、みんなに仕事を振っているのではないか。
それで周囲の手伝う気が、なくなっているのかもしれない。
「よかったら委員会の仕事を手伝わない? 放課後は、基本的にここにいるから」
「いえ……急いでますので。そろそろお暇します」
「そう。急いでいるようには見えなかったけどね」
皮肉のようにも聞こえたが、これも本人にそんな意識はないのだろう。
「で……あなたの名前は?」
女子生徒が、きょとんとした表情を見せた。なぜそんな表情をするのか、まるでわからない。
「名香野陽向(ひなた)。三年の名香野よ」
「名香野先輩ですか。どうもお邪魔しました」
そういって頭を下げて部室を出ようとした時、用事があったことを不意に思い出した。
「そうだ、名香野先輩。脚立って、ありませんか? 探していたんです」
「脚立? ああ、そこにあるわよ。いいわ、そのぐらいでお役に立てるなら、お安い御用です。他に役に立てることはないかしら。あなたには、ずいぶん助けてもらったから」
人の使い方や言葉に少し問題はあるが、悪い人ではないらしい。
「いいえ、結構です。後で返しに来ますので」
「じゃあまたね、平山君」
名香野先輩が、再び部室を開けて扉を支えてくれた。脇を通り抜ける時、会長とは違った柑橘系の芳香が、鼻腔をくすぐった。
部室に戻ると、朋夏にいきなり殴られた。三十分近く外していたから、無理もない。他の生徒の手伝いをしていたと弁解すると、「どうせ女の子に頼まれて、油売ってたんでしょ?」と切り返された。たまに嗅覚を発揮するのが、朋夏という奴だった。