1章 果てない海と 空の青(5)
教室に入ると、今度はポニーテールが猛烈な勢いで突進してきた。「猪突」という言葉が、頭に浮かぶ。最近、脳内が妙に漢語的なのは、会長の影響だろうか。
「ねー、大変なんだけど!」
「それはひょっとして宇宙科学会の解散の話だったりするのか?」
「あ、掲示見た?」
「いや、聞いた。上村から」
「あたしは今朝、掲示板で見た。昨日、そんなことになってたなんて……どうしよう。活動実績とか示せばいいのかな?」
「活動実績って……何かあったか?」
思いつくのが海合宿とスキー合宿とハーフマラソンと焼き肉パーティーでは、堅物の執行委員会のお眼鏡にはとてもかないそうにない。軽運動サークルならまだしも、宇宙科学会というご大層な名称が、仇になっている。
「ああ、やっぱりあたしがあの時、焼き肉を断固反対していればよかったのかなー」
正確に言えば、あの日はコンロで鍋パーティーのはずだった。
「こうなったものは仕方がない。だが、まずは会長じゃないかな。昨日の呼び出しをわざとすっぽかしたみたいだし」
僕は上村から聞いた話を、朋夏にしてやった。会長は頭がいいだけでなく、ああ見えて度胸も据わっている。本気で解散を避けようとすれば、活動実績を偽装するくらい、わけがないだろう。
しかし大物すぎて、あっさりさじを投げるという可能性も、否定できない。
「会長に潰す気がなければ、この程度の危機は乗り切ってしまうと思う。逆に潰す気だったら、どうあがいても無理じゃないか」
「確かに……確かに、そうだよね」
朋夏の肩が、急にしぼんだ気がした。そこで予鈴が鳴って、話はいったん打ち切りになった。
授業中の朋夏は、いかにも心ここにあらずという感じだった。時々何かをノートに書きなぐっては、破って捨てている。朋夏なりに、解決策を模索しているらしい。
だが解散するにせよ存続するにせよ、僕がこの学会に居心地のよさを感じるのは、決められた活動らしい活動がないという一点だった。もし会長が急に何かの活動を始めたら、僕はこの学会にいるべき理由を失う。それなら解散も同じことだ。
放課後、朋夏と速足で部室に行くと、すでに先客がいた。
「あっ、湖景ちゃん、早いね。やっぱり、心配になった?」
「ええ……朝から勉強も手につかなくて……私、どうしたらいいのか……」
朋夏がよしよし、と湖景ちゃんの頭を優しくなでた。入学して二か月で部活が解散となったら、確かにショックだろう。
「空太とも話したんだけどさ、何か活動らしいことをすればいいんじゃないかって、思ってるんだ」
「そう……なんですか?」
「そうだよ! あたしたち、はっきり言って今まで、宇宙科学会で何もやってなかったから!」
「そう……なんですか??」
「そんなことないぞ、朋夏。僕たちは去年、泳いだり滑ったり走ったりしたじゃないか」
「そう……なんですか???」
湖景ちゃんの目がますます丸くなり、瞳に絶望の色が揺れているのが、今度ははっきりと見えた。
「あれって、会長の趣味っていうか、ほとんどその場の思い付きじゃない。そりゃ楽しかったのは否定しないけど、それじゃダメなんだよ! 宇宙科学会として、何をするかが大事で……ほら、空太も考えてよ、何か! 宇宙科学っぽい活動! パーっと派手に、目立つ奴!」
朋夏の演説が止まったのは、「宇宙科学会」が何をする部活動なのか、今の今まで考えたことがなかったからに違いない。下手すると会長も、何が活動目的なのか、考えていないかもしれない。
校舎屋上の天体望遠鏡は確か、天文学会と一緒で優先的に使えたはずだ。ただし使用申請をしたことは一度もないし、唯一星を観測するという名目で屋上に集まった時は、鍋とコンロと食材持参だった……そこで満足すればけがは軽かったはずだが、巨大鉄板を持ち込んだ奴がいた。
その時、部室の扉が開いた。いっせいに集まった視線の中心が、今度は目を丸くした。
「あらら、気圧低いねー。低気圧、また発生?」
「会長、あの話、どうするんですか!」
朋夏が食ってかからんばかりの勢いで、会長に飛びついた。
「あの話って……トモちゃんの海水浴の提案? うん、行くつもりだよー。今年の夏は、旧校舎の近くで泳ぐよー」
「そうじゃなくて、解散の話!」
部活動がどうなろうと、水泳に行くことだけは決定らしい。この人の楽天的な発想は、まったくもってうらやましい。
「宇宙科学会が解散するって……あたしたち、どうすればいいんですか?」
「ああ。トモちゃん、そんなこと、心配してたの?」
会長がなんでもない、と言わんばかりの表情をした。会長らしい華麗な逆転技を、一瞬でも期待した僕が馬鹿だった。
「心配しなくても、ソラくんが何とかしてくれるよー。じゃ、そのお話は、また今度ー」
夏が近づいているはずの部室の中が、いっぺんに凍りついた。
「それで、きょうの活動。衣替えをするからね。わかりやすく言うと、部室の掃除だよー」
なぜこの緊急時に急に掃除なのか、ますますわからない。ただ、こうなったら会長は何を言っても聞かないことは、朋夏も僕も一年余りのつきあいでわかっている。
会長が触れようとしない以上、解散についても何か考えがあるに決まっている。そういう部分だけは、不思議と信頼に値する人だった。
朋夏はため息ひとつをつくと、頭を軽く振って表情から不安を打ち払った。
「じゃあこの際、蛍光灯も変えちゃいましょう。切れかかってましたからね」
朋夏の元気にはまだ無理があったが、一度やると決めたら雑念を捨てられるのも、体育会系の精神力だろう。その姿を見た湖景ちゃんがぱたぱたと外に駆けていったかと思うと、掃除道具を一そろい抱えて戻ってきた。
「ソラくん、積乱雲」
「は?」
会長は、微笑を浮かべながら、天井の蛍光灯を指さしている。
「ああ……あれを交換しろ、という命令ですね?」
「ソラくんは、理解が早いねー。さすがは宇宙科学会の入道雲だよ」
要するに背が高いという意味で、これが会長流のほめ言葉なのだ。しかし天井は高く、椅子に乗って手を伸ばしても届きそうになかった。
「ソラくんに足りないのは……根性?」
「空太の場合は……やる気、じゃないですかね?」
「平山先輩、脚立を持ってきましょうか」
ああ、湖景ちゃんは、宇宙科学会唯一の良識派だ。
「でも空太、脚立なんか部室になかったよ? 法被やハリセンや豆大福や麦藁帽子ならあるんだけど」
宇宙科学会が解散命令を受ける理由が、はっきりわかった気がする。
「心配ないよー。ソラくんが、借りてきてくれるよー」
はいはい、会長命令は絶対ですね。僕は掃除を朋夏たちに任せて、部室を離れた。