二次創作小説「水平線の、その先へ」

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9章 想いは一つの 羽となり(5)

「で? ヒナちゃんはどこ? 何があったのかなー?」

 会長が腕を組んだまま、じっとこちらを見ている。名香野先輩がどこに行ったのか、見当もつかない。

 先輩はご丁寧にも、自分のミニコンと飛行機のエンジンキーを抱えて、飛び出してしまった。お陰でこの二日間、先輩がどんなデータを取ってどんな作業をしていたのかわからずじまいだし、機体のチェックのしようもない。僕と湖景ちゃんが、その事実にも呆然としていると、重役出勤の会長が、姿を現したのだ。

「ソラくん、押してダメならって、言ったでしょ。それなのに結局、つっかかっちゃったの?」

「……すみません」

 自分の失態。謝るしかない。

「ま、正面からぶつかっていったのも、ソラくんらしいといえばらしいけどねー」

 会長は首を傾げて、思案げな顔をしている。何かコメントがあるのかと、湖景ちゃんと二人で待った。

「で? どうしてソラくんはまだ、ここにいるのかなー?」

「え、だって会長が何を言うのかと思って、待ってたんですけど」

 今度こそ会長に、はーとばかりに盛大なため息をつかれてしまった。

「ソラくんが責任持って、ヒナちゃんを連れ戻すんだよ。ほら、今すぐ」

「そのつもりですが……あの、どこを探せば」

「知らないよ、そんなこと。とにかく、行った行った」

 会長は僕の背中を両手で押して、格納庫からたたき出した。

「あのね、ソラくん。ヒナちゃんみたいなタイプは、誰かに必要とされることに、飢えているんだよ」

「名香野先輩を必要に、ですか? でも先輩は有能で、引く手あまたじゃないですか」

「そこが乙女心なんだよ。さ、行くといいよー」

「平山先輩……姉さんをお願いします」

 悄然とする湖景ちゃんの横で、会長はなぜか笑顔で手を振っていた。

 僕は名香野先輩の姿を探して、旧校舎やグラウンド、研修センターなどを歩き回った。しかし、どこにもいない。こうなると、旧校舎を出た、と判断すべきなのだろう。

 すでにタイムリミットである午後三時を過ぎていた。これから連れ戻しても、もう元の力学系に戻す時間がない。つまりフライ・バイ・ラジオ・システムが完成しない限り、僕たちは朋夏を飛行機に乗せるわけにはいかず、すなわち不戦敗となる。

 首尾よく完成したとしても、飛行はぶっつけ本番だ。訓練を積んできたとはいえ、新しい操縦桿とペダルの感触は、シミュレーターだけで解決できるだろうか。あるいは教官が、もう力学系に戻す判断を下していて、湖景ちゃんと会長が作業を始めているかもしれない。

 名香野先輩が戻っても、名香野先輩の居場所はないのかもしれない。それでも僕は、先輩を探す。それが先輩の苦悩に気づけなかった、僕の責任だ。

 旧校舎を出た。国道沿いに、駅に向かって歩く。つい数日前、夜のこの道を先輩と一緒に歩いた。あの時先輩は、委員会を追い出された悔しさを胸にしまいこみ、白鳥にフライ・バイ・ラジオ・システムを組み込む構想を、一人でまとめていたのだ。

 いつも立ち寄る、コンビニを覗いてみる。先輩の姿は、見当たらない。ほんの数時間見ないだけなのに、強い寂しさを感じる。

 国道を横断し、海岸の砂浜を見渡してみる。この夏は、会長と朋夏と湖景ちゃんと、四人で泳ぐ予定だった。名香野先輩はあの時、まだ僕たちの仲間ではなかった。それが、ここまで僕たちに溶け込んでくれた……だが、それは波打ち際の砂城のように、はかなく消える関係だったのか。

 波が寄せては返し、風が小さな波浪を作る。サーフィンには絶好の気候だろう。陽光にきらめく波頭は、いくら見ていても飽きない光景だった。だが、感傷に浸っている時間はない。

 踵を返し、大きくて青い空を見上げた。きょうも雲一つない快晴だ。人は自力で空を飛ぶことはできなし、海に生きることもできない。それでも人は空や海の懐に抱かれ、夢を見ることができる。僕は仲間達と一緒に、この夢を見続けたい。

 旧校舎の裏山の緑が目に入った。その上に、僕たちをひと夏の魔法にかけた、白い灯台がある。そのすぐ下に、小さな女性の人影があった。

 僕は国道を渡り、高台に登る崩れかけた細い石段を、一気に駆け上がった。旧校舎の正門を右に出て向かう緩やかな坂道は歩きやすいが、こちらは断崖を登るような細道で、何度か足を踏み外しかけた。僕が灯台の下にたどり着いた時、息がすっかり上がっていた。やはり朋夏と一緒に、体を作った方がいいのかもしれない。

「平山君……」

 灯台に背を持たせて座り込んでいた名香野先輩が、驚いたように顔を上げた。思わぬところから僕が出現して、あっけにとられたのだろう。その目は真っ赤で、生気がまるでなかった。威風堂々としている学園での名香野先輩の姿は、どこにもなかった。

 いつも前をまっすぐに見ていた先輩の視線は、今は怯えたように、僕の前をふらふらとさまよっていた。霞み始めた水平線の先で、徐々に太陽が高度を下げていた。吹き抜ける風に、先輩の少し赤味がかった長髪が揺れた。僕はまず息を整え、先輩の横に腰かけた。

「帰りましょう、先輩。湖景ちゃんや会長が心配しています」

「ごめんなさい……もう、どうしたらいいのか……こんなことしている場合じゃないって……わかっているのに……」

 張りのない声でぽつりぽつりと語る先輩は、まるで別人だった。そしてここまで傷ついているのに、この人は自分の仕事を忘れない。

「僕たちが手助けをします。いえ、させてください。もう少しですから」

 先輩は、頷かない。落ち込んでも、頑なな姿勢だけは変わらなかった。

「いいですよ、もう。こうなったら、とことん先輩につきあいますから。僕はもう、先輩を責めたりしません」

 優しく言い聞かせるように、言葉を紡ぎ出す。

「僕は最後まで、先輩の味方ですから」

 再び先輩が押し黙った。どうしたのかと思っていたら、先輩の瞳から涙がとめどなく溢れ出していた。その一粒一粒に太陽がきらめき、海と空の青を映し、ダイヤモンドのような輝きを放ちながら、頬を伝わって流れ落ちていった。いつも正しく、前向きで、とても強いと思った人が、泣いている。あの会長の攻撃にも、一歩も引かなかった人が、震えている。

「馬鹿……なんてことするよ……」

「え?」

「そんなこと……言われたら……誰だって泣くに決まっているでしょ……私を泣かせるなんて……」

 女性を泣かせたのは、初めてのことだ。朋夏に泣かされたことなら、何度もあったけど。

「あなたのせい……だからね……責任、とってよ……」

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 子供のようになすすべもなく泣く先輩の肩を、僕は引き寄せることしかできなかった。思っていたより、その肩はずっと細く、柔らかく、小さかった。

 「みんな、知ってますから。先輩が誰よりも、がんばっていること」

 我ながら、説得力のない励ましだと思った。しかし、言葉が浮かばない。

「それではダメなの……だって私には、これしかないもの……」

 改めて、二人で天の川を見上げた夜を思い出す。先輩はあの時も、そう言っていた。

「先輩は、いろんなことができます。今はちょっと足踏みをしているだけなんです。だから先輩は、いつもの先輩らしくしていてください」

「だって仕方ないじゃない……そうしないと、私は私でいられない……こんな形でしか、私はみんなと一緒でいられないんだから……」

 そうか。この人は、人に頼られることでしか、自分の居場所がないと思っていたのか。だから、すべての苦労を一身に背負い込んでいく。

「それは先輩の勘違いですよ。できなければできないで、いい。それでも仲間ですよ」

「……」

「先輩の今の居場所は、ここです。宇宙科学会です」

「それでも……私は、みんなの足手まといになるの……委員会も同じだった……みんなの期待に応えないといけないの……」

 何とかこの心をほぐさない限り、僕たちは前に進めない。でも、今はこうして肩を抱いてあげることしか、僕にはできなかった。

 どれほどの時間がたっただろう。不意に、後ろから声がかかった。

「ヒナちゃん。そろそろ、戻ろうよ」

 僕と先輩は、思わず体を離した。会長が笑みをたたえ、風でなびく黒髪を右手で押さえながら、立っていた。

「ヒナちゃんの納得いくまで、やろう。でも、その前にもう一度、私たちと話し合って欲しい。ヒナちゃんの納得できる形で、作業ができる方法を、とことん考えよう」

「いいけど……古賀さん……これだけは、私……あなたにも絶対に譲れないから……」

 そこにはたぶん、会長への微妙な心情が含まれていた。優秀な生徒ゆえの劣等感かもしれない。どうすれば、この人の心を溶かせるのだろうか。

「うんうん、わかった。とにかく戻ろうよ。湖景ちゃんも、心配して待っている」

 会長が先輩の手をとって、ゆっくりと立たせた。先輩は会長から顔を隠し、ハンカチで頬をぬぐった。 

 その時、僕の携帯に、メールの着信音が入った。

「コンビニの前。待っている」

 短い電文だった。今になって来るとは、いつもながら間の悪い奴だった。

「会長、すみません。先輩を格納庫まで、送ってあげてください」

「待ち人、来たんだね?」

「……はい」

 会長はすべて、お見通しのようだった。僕は先輩を会長に任せ、さっき登ってきた不安定な石段を、一目散に駆け下りた。