二次創作小説「水平線の、その先へ」

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14章 無窮の闇に 囚われて(5)

 8月1日(月) 北の風 風力1 曇り

 八月になって最初の一日は、久しぶりの曇り空で迎えた。

 僕は寝苦しいベッドで、夢を見た。

 夜の街で、雪が降っていた。僕をじっと見つめる男の子がいた。

 それしか覚えていないし、それ以上は思い出す気にもなれない。夢は起床後にすぐに反芻しなければ、忘れてしまう。その力がありがたかった。

 時間は六時半。花見も昨日の疲れがあってか、まだ起き出す様子がない。

 僕は再び眠る気にもなれず、寝汗ですっかり濡れたTシャツを着替えて外に出た。朝の海霧が珍しくひんやりとした空気を運んでいる。

 いつもなら「遅いぞー!」という元気な朋夏の声がグラウンドから響くはずだが、きょうは鳥の声しか聞こえない。

 格納庫の扉が、わずかだが開いていた。昨日の夜は片づけ作業どころではなかった。扉を閉め忘れたに違いない。

 そう思って格納庫に近づくと、中からぱたぱたという、キーボートシートをたたく音がした。僕は一瞬幽霊じゃないかと、本気で思った。

 だが確かに、湖景ちゃんが作業机に座っている。曇った朝の薄暗い光の中で、モニターの光源が小さな頭の黒い影を作っている。

「湖景ちゃん、何をやっているんだ!」

 思わず叫んでしまった。湖景ちゃんがゆっくりとこちらを振り向き、そしてぺこりと頭を下げた。

「あ……平山先輩。きのうはご迷惑をおかけしました」

「ご迷惑って……病院はどうしたの?」

「抜け出しました」

 湖景ちゃんは平然としている。

「抜け出すって……」

「もう大丈夫ですから」

「大丈夫じゃないだろう!」

 湖景ちゃんの肩を、思わず揺すった。ここで何かあったら、取り返しのつかないことになる。

「病気のことなら、もう大丈夫です」

 凛とした大人びた表情だった。僕は今まで、こんな湖景ちゃんを見たことがない。

「私……夢を見ていました」

「夢?」

「はい……実は私、二年間寝ている間、ずっと夢を見ていたんです。あの頃は病気がちで……友達もできなくて……教室でいじめられて……本当に戻りたくなかったんです。この世界に」

 湖景ちゃんの目が遠くなった。僕は言葉が出ない。

「でも、お母さんがあんまり私のことを呼ぶから……そろそろいいかなって思って起きたら二年経っていました」

 湖景ちゃんの笑顔が物悲しい。

「でも、今回は違ったんです」

「……違う?」

「はい。私、プログラムがうまく動かないことが本当に辛かったんです。それで逃げ出して、眠ってしまって、わかりました。みんなが私を呼んでくれるんです。姉さんが、会長さんが、花見先輩が、宮前先輩が、教官さんが、そして平山先輩が。私は宇宙科学会に戻りたい。みんなと一緒に作業をして、絶対にシステムを直すんだ……そう思っていたら、自然に目が覚めました」

 言葉が出なかった。

「それで病院のベッドだと気づきました。ああ、私、また眠っちゃったんだなって。一年くらい寝ちゃっていたらどうしようかって。でも日付を見たら半日も経ってなくて……でも休むには十分な時間で、もう眠れそうにないから。だから病院を抜けちゃいました」

 湖景ちゃんがいたずらっぽく笑い、舌を出す。その顔が、みるみるうちに視界から歪んでいった。

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「平山……先輩? なぜ、泣くんですか?」

 僕は拳を握ったまま、溢れてきた涙を、流したままにした。湖景ちゃんは僕の体を引き寄せ、そして僕の頭を優しくなでてくれた。

「湖景ちゃん……本当によかった。戻ってきてくれて。僕たちの世界に、戻ってきてくれて」

「はい、平山先輩……ありがとうございます。もう泣かないで……一緒に作業、がんばりましょう。私、もう負けませんから」

 僕は、先輩なんかじゃない。この人の先輩なんかじゃない。

 この人は本当に芯の強い人で、それに比べたら、僕はずっと子供でしかなかった。そんな僕を、彼女は温かい笑顔で慰めてくれた。