二次創作小説「水平線の、その先へ」

当ブログは二次創作小説(原作:水平線まで何マイル?)を掲載しています。最初から読みたい方は1章をクリックしてください。

16章 輝く未来の 懸け橋に(3)

 会長はいつもの灯台の下、高台から遠くの海を望む公園に立っていた。見ているだけで吸い込まれそうな黒髪は、青空に落ちた一筋の影だった。

 カモメの鳴き声が、きょうはやけに物悲しく聞こえる。それは僕がこの光景に、孤独を見ているからだろうか。そして彼女は手すりに両ひじをついたまま、呆として水平線を眺めていた。

f:id:saratogacv-3:20210507121538j:plain

 「ソラくん……何しに来たの」

 会長もまた、僕のほうを振り返らなかった。その声に、抑揚がない。誰が会長を、こんな人にしてしまったのだろう。

「朋夏が気を失う原因、聞いてきました」

「……」

「あいつ、去年の夏に平均台を宙返りで降りる練習をしていて、着地に失敗して頭から落ちたんです。それで落下する感覚と視界の双方に、恐怖症になってしまったそうです」

 前後は覚えていないのに、落ちた瞬間だけはよく覚えている、と朋夏は言った。体が動かず、上下さかさまの視界に揺れるように床が近づき、ぶつかる直前、目の前に平均台の角が飛び込んできた。

 反射的に首を数ミリ動かさなければ、眼を強打して失明していただろう。だが目覚めた瞬間から、その恐怖に心がおののき、足と腕が震え始めた。

「あたし、退院しても一週間近く、同じ夢を見続けたの……それでもう、平均台に上ることさえも、怖くてできなくなった。乗ってもすぐ体がぶるぶる震えて、落ちるたびに気を失うの。練習したくても、何もできない……それであたしは、体操をあきらめたのよ」

 だが、すっぱりとは、いかなかった。全身全霊をかけていた体操を突然失ったことで、すべての気力が萎えてしまった。体のキレは短時間で失われ、手足はすぐに、命令どおりに動かなくなった。悔しさをぶつける相手もなく、ただ僕がいることだけを頼りに宇宙科学会の門をたたいた。

 飛行機が完成する前の雨の日、朋夏が格納庫で空いた長い木箱を平均台にしたことがあった。あの時は遊んでいるようにしか見えなかったが、本当は自分がトラウマを克服できたか、確認したかったようだ。その時、問題は起きなかった。

 恐怖の感覚が甦ったのは、予選会の後だ。墜落で気を失った無形の衝撃は大きく、立ち直りかけた心に再び傷を与えたのだろう。

 朋夏は宇宙科学会に入ってからもずっと、僕に臆病な自分を、知られたくなかったそうだ。朋夏が正直に「平均台から落ちるのが怖い」と言ってくれたなら、僕はいくらでも慰める言葉を思いつく。お前なら克服できるはずだ、時間が解決する、気を楽にすればいい……だが、朋夏は僕から慰められることを期待する自分が一番、許せなかった。

 朋夏も、僕と同じだった。

「僕も朋夏も、一番辛かった思い出を、ひたすら心の奥に封印することで、この学会で生きてきたのです。ですが、僕は飛行機作りをすることで、以前の情熱を取り戻し、朋夏も平均台を上れるまでに回復しました。そういう場を与えてくれた会長に、僕は感謝しています」

 会長は何も言わないし、反応もしない。ただ話を遮ることもしない。きっと僕の独白を聞いてくれているのだろう。

「今度は、会長の番です」

 会長の背中が、軽く震える。

「僕に話してくれませんか。あなたが、この大会に勝たなければいけない理由を。僕やみんなを、この学会に集めた理由を」

 会長は海の方を向いたまま、首を振る。

「あなたも僕や朋夏のように、辛い現実を直視することを恐れているのかもしれません。でも、きっと大丈夫です。僕もあなたに指摘されたことで、やっと過去の自分の罪を見つめ直すことができるようになりました……そして湖景ちゃんと名香野先輩、それに二人のお母さんを見ていて思いました。人は時に、人の心の中に踏み込まないといけない時があります。本音を明かさなければ前に進まない時があります。それができてこその本当の友人じゃないですか」

「友人……」

 ようやく口を開いた。きのうと違って、否定はしなかった。

「会長。宇宙科学会の会則第一条は、きょうで廃止です。すべての会員は互いに助け合うこと。信頼感で結ばれること。その第一歩です。この学会を作ったあなたが、まず勇気を持って一歩を踏み出していただけませんか」

 会長が、ゆっくりと振り向いた。その双眸に、朋夏に向けた氷の輝きはなかった。

 変わりに広がっていたのは、あの虚空だ。

 僕は頭痛を覚えた。すべてに絶望した人間だけが見せる瞳。

 あの子と同じだ。

 脳が急に暴れ出し、フラッシュバックを起こそうとした。僕は手足が動き出しそうになるのを必死に押さえ、足を踏ん張って姿勢を支えた。

「ソラくんは……何もわかっていない」

 僕をはっきりと拒む言葉だった。