二次創作小説「水平線の、その先へ」

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16章 輝く未来の 懸け橋に(9)

 格納庫に椅子が五つ、並べられた。僕は飛行機をバックに、バイオリンを持つ。

 ひさびさの滑らかな楽器の感触に、胸に懐かしさが湧き上がった。同時に、不安も覚える。最初に音の調節をした。格納庫に弦の音が響く。

 会長は一言も発せず、床に座り込んでいた。事情がよくわかっていない名香野先輩の肩を借りて、ようやく椅子に腰をかける。花見も湖景ちゃんも席に着いたが、何ごとが起きたのかと、驚いた表情のままだ。

 会長と朋夏以外は、僕がバイオリンを弾いていたことを知らない。この学校に来て、誰にも、一度も話さなかったことだから。

 一年半も放っておいた弦が心配だが、一曲くらいは持つだろう。それに僕自身の腕が錆びついているに違いない。あの時のテクニックは無理でも、雰囲気だけでも出せばいい。僕はそう心に決めた。

 弓を構える。そして、一気に弾き始めた。あの時の課題曲。

 腕は、僕の想像よりも軽く動いた。一音一音、弾くたびに感覚が戻っていく。徐々に僕は、自分の心をあの時の自分に重ね合わせながら弾いた。たった一回の演奏で、忘れていたはずの躍動感とリズムが、なぜか体の中心に染み付いていたかのように、甦ってきた。

 僕を見つめる会長の顔に、すでに怒りは消えていた。そして脱力したように僕の腕を見つめ、演奏が進むにつれて、今度は大きな瞳が潤み始めているのが、わかった。

 あの日の演奏は楽しかった。そして、僕の人生最高の演奏だった。

 僕は総帥から、コンサートの次第を聞いた。会長は父親と一緒に会場に来ていて、貴賓席で僕の演奏を聞いていた。

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「沙夜子はね……学園の冬休みで久々に実家に戻ったというのに、ずっと不機嫌で。あの日も私の横で、面白くなさそうに演奏を聞いていたんだよ」

 総帥はそう言った。

「ところが君の演奏が始まるや、沙夜子は身を乗り出すように聞き始めた。私は正直、君の演奏にも、沙夜子の変化にも驚いた。君の演奏はなんと言うか……技術は上位者に劣らず確かだったが、あまりに破天荒でね」

 若気の至りとはいえ、恥ずかしさで顔が真っ赤になる。

「ところが、沙夜子は食い入るように演奏を聞き入った。やがて君の演奏が終わり、ホールは静寂に包まれてしまった。みんな、あきれたんだろうね」

「すみません、あの時は本当に……」

「その時、誰よりも最初に拍手をしたのが沙夜子だったんだよ」

 え?

 あれは、朋夏じゃなかったのか?

 あの会場で、最初に拍手をしたのが会長……

「奨励賞の演奏がすべて終わった後でも、沙夜子は珍しく興奮していた。僕に向かって、あの男の子が一位になればいい、ほかはみんなつまらない演奏だったから、と言ったよ。そして審査の最後に、審査委員長から私に打診が来た。平山君を特別奨励賞にという意見があるが、コンサートの権威に傷をつけないか、という点だったね」

 すると、あの結果は……

「ああ、誤解しないでくれたまえ。私が推薦したんじゃない、審査委員が先に君を推挙したんだ。そして私の考えもビジネス同様、沙夜子の意見とは関係なく答えた。私には受賞者を決める権限はない。審査委員が特別奨励賞だと思う人間を、自信を持って選びたまえ、と」

 総帥は、ふうっと大きな息をついた。

「君が奨励賞に選ばれたことに、沙夜子は飛び上がって喜んでいた。だが今にして思えば、沙夜子が私に『ありがとう』と言ってくれた、最後だな」

 総帥の視線がまた、遠くなる。

「そして悲しい事件が起きた。沙夜子は数日だが、ふさぎこんでしまった。もちろん沙夜子の考えが審査に影響したわけじゃない。だが沙夜子は、はしゃぎながら君以外の演奏を非難していた自分を恥じたのではないかな。例えつまらなく聞こえる演奏でも、真剣に、文字通り命を賭けて、演奏する同世代の子どもがいるという事実に気づけなかった自分が」

 あの子の死に、自分を許せなかった会長。まるで僕のように。

「沙夜子はしばらくして、元の沙夜子に戻った。そして私とは、今まで以上に、疎遠になった。それでも去年くれたメールでね、君が仲間になったことが、短く書いてあったよ」

「その、会長は……いえ、沙夜子さんは、なぜ僕の演奏をそこまで気に入ったのでしょうか」

 僕は一番、気になった点を聞いてみた。

 すると総帥は、僕に優しい笑みをたたえた。

「君の演奏が、誰よりも自由だったからさ。コンサートの勝敗も、堅苦しいクラシックの決まりごとも超えていた。技術の基本は忠実に、表現は自由で奔放で、そして大胆で挑戦的だった」

 自由。会長が求めて、やまなかったもの。

 一瞬の気の迷いから生まれ、あの子の最後の希望を消した、罪深い演奏曲。

 会長の奔放な行動や奇行は、あの日の僕の演奏がきっかけだったんだ。

そして会長は次の春、内浜学園高等部に入学し、だけど別人のように無気力となった僕を中庭で見つけた。

 すべての事情を察した会長は、遅咲きの八重桜の下で、僕を宇宙科学会に誘った。

 何も聞かず、何も言わず、ただいつも僕の傍に寄り添って、ずっと笑っていてくれた。

 たった一回の演奏で、僕のすべてを受け入れ、僕のすべての罪を許してくれて。

 ――会長、ありがとうございました。

 万感を込めて僕が弓を置いた時、会長は名香野先輩の腕の中で、子供のようにわあわあと泣きじゃくっていた。