13章 重ねた努力に 裏切られ(7)
7月30日(土) 西の風 風力3 雨
カレンダーがまた一日めくられ、スケジュールはXデーに向けて、着々とカウントダウンを刻んでいく。八月七日の本番まで、あと一週間あまりだ。焦りがないと言えば、ウソになる。だが時間の少なさを嘆く時間もない。
花見から今朝ピッチ角の自動調整プログラムにバグが見つかったという報告を受けた。きのうの夜、朋夏の特訓の最中に発覚したという。朋夏は相変わらず墜落を繰り返して、あまりに頻繁に落ちるのでプログラムを再確認していたら、モーターを切ってピッチを変えるまでの間に原因不明のタイムロスがあるバグが見つかったという。
久しぶりのまとまった雨を避けながら格納庫に行くと、すでに湖景ちゃんがいて、少ししんどそうな顔をしながら空を見上げていた。
「天気予報だと夏の走り雨で、もうすぐやむみたいだよ。朋夏も午前中は飛行訓練するって」
「そう……ですか」
湖景ちゃんの表情は、今の空のように暗い。
これまで湖景ちゃんは、他人と比較して自分ができないことを気にして落ち込んでいた。今回は少し違う。自分が一番得意な分野で、つまずいていたわけだ。昨日の晩も、それで遅くまで作業をしていたのだろう。
「すぐに直せると思ったんですけど……反応が遅れている時のデータをミニコンに送って、徹底的に調べたほうがいいかもしれません」
「でも朋夏の墜落とは関係はないって、花見は言っていたよ」
機首を引き起こす時点ではピッチ角は正常に回復しているから、朋夏の成功率とは別というのが花見の見解だった。
「だけどプログラムを直さないと自動ピッチで飛ばすのは危険であることに、変わりはありません」
確かにアクロバティックな飛行を試みるだけに、せめてソフトとハードは完璧に機能して欲しいものだ。
「ごめんなさい……こんなはずじゃないんですけど」
コンプレックスの塊だった湖景ちゃんが、ようやくつかみかけた自信。それが早くも揺らいでいる。
「時間はあるんだし、根気よくデバッグすれば、問題は見つかるって。それより少し休んだらどうかな? 気分を変えれば気づく点もあるって」
何とか励まそうとしたが、湖景ちゃんの表情は浮かないままだった。
機体の作業が終えた昼には、予報通り暗い雲が去って、夏の太陽が照り付けていた。水たまりのあるアスファルトに陽光が照り返り、今度は不快な暑さが体にまとわりつく。
「津屋崎さん……大丈夫かな」
外で工具の準備をしていた花見が、いつのまにか横に並んでいた。
「彼女、優秀なんだけど、なんか自信なさげだよね。ずっとああなのか?」
「ああ。それでもうちに入った頃に比べると、ずいぶん周りと話すようになったし、たくましくなったんだけどな」
花見は話しやすい男だが、入学したての湖景ちゃんだったら、こんなに早く打ち解けることはなかっただろう。
「湖景ちゃんって、一つのことに没頭するタイプだしね。たぶん、持ち直してくれるんじゃないかな」
「僕も、彼女は結構、芯が強いんじゃないかって思っている」
花見はよく、仲間の事を見ている。大所帯の部長を務めていた経歴は、伊達ではないってことだ。
「ただ、あの強さがマイナスにならなければよいのだけれど」
花見が地面を見ながら、足下の影を踏みつける。真夏の日差しが濡れた地面に焼き付けた僕たちの影は、黒く、濃く、だけどどこか頼りなげに揺れていた。
「津屋崎さんってさ……あのがんばりや強さが、見ていて痛々しくないか?」
ちょっと、驚いた。僕は今まで、そんな感想をもったことがない。
「負けられないもの、譲れないものをもつことは、人を強くするけれど、同時に自分を傷つける……航空部で負けが許されなかった、僕のように」
花見が今度は上を向いた。その先には、真っ青な夏の空があった。
「花見は……湖景ちゃんと名香野先輩のことは知っているのか?」
「いや……双子の姉妹で、複雑な事情があるようだとは察しているけど」
僕は、湖景ちゃんが病気で二年間遅れていることを、花見に話してやった。
「そうか。そんな事情があって、津屋崎さんは一年生なんだね」
「湖景ちゃんのやる気やがんばりは、二年間の空白を追いつこうとする思いの反動なのかもしれない」
「もしそうなら……津屋崎さんは、遊びのない機械のようなものだな」
花見が、そう呟いた。
「機械に遊びがないと、耐久性が落ちる。だから機械の冗長性を抑えすぎるのは、必ずしもいい設計とは言えない。遊びは一見不要に見えるけど、遊びなしでは機械も人間も組織も、うまく動かないんだよ」
名香野先輩は生真面目で遊びがないばかりに、責任感に押しつぶされそうになった。今度は妹の湖景ちゃんが、遊びを作る番なのかもしれない。
「時間を早めようとするのは、悪いことじゃない。でも無理に時間を埋めようとすれば、強くても耐久性がない分、ぽきりと折れる」
ぽきり、という花見の言葉が僕の胸の奥に響いた。