二次創作小説「水平線の、その先へ」

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1章 果てない海と 空の青(7)

 6月3日(金) 北東の風 風力2 雨

 今朝、気象台が梅雨入りを発表した。例年より一週間近く早いが、空梅雨の可能性があるという。家の近くの田んぼは、大丈夫だろうか。

 放課後に朋夏と部室に顔を出すと、湖景ちゃんが最新型の手のひらサイズのミニコンで、ネットに没頭している最中だった。半透明なスクリーンパネルの裏に、プログラムらしき数字の羅列や微積分の計算式が光っていたが、いつものように、内容は理解できない。

 湖景ちゃんの家は母子家庭で、お母さんは精密機械の工場経営者兼プログラマーと、本人から聞いたことがある。自宅は学園から歩いて十分という近さだ。

 大手メーカーの下請け企業が多い東葛市は、学園から海側に少し歩くと、町工場が並ぶ。そこで女手一つで育てられた湖景ちゃんは、物静かで優しい高校生に成長したが、外見に似合わず数字やコンピューターに強いのは、環境のなせる技だろう。部室ではネット世界に身を置く時間が長いが、性格が正反対とも言える元気娘の朋夏とは、姉妹のように親しかった。

 会長は奥の席で、中国古代の歴史書を開いている。僕と朋夏は、ほぼ同時に机の上の新刊漫画雑誌に気づくと、ライフセービングの競技のように突進して手を伸ばし、きょうは僕の勝利に終わった。会長が毎週買ってくる漫画で、朋夏との勝負は五月から四勝一敗と好調。恨むような視線をもらったが、譲る気はなかった。

 その時、部室をノックする音が聞こえた。

「ソラくん、ちょっと出てくれる?」

 会長の命令に従って扉を開けると、一人の女子生徒が社長秘書のような完璧な前屈のお辞儀をしていた。

「失礼いたします」

 そして、僕の方を一瞥もせずに、つかつかと会長の前に歩み寄った。その横顔に見覚えがあった。

「中央執行委員会委員長の名香野陽向です。本日は宇宙科学会に、改めて通告するためにやってまいりました」

 朋夏と湖景ちゃんの顔には、「あわわ」と書いてある。しかしこの人、執行委員長だったとは。後で上村に聞いたら、「学園有名人ナンバー2を知らなかったのか」と、あきれられた。

 成績優秀、眉目秀麗、それでいて強面の実力派で、優秀な生徒が集まる執行委員会でも十年に一人の逸材……と賛辞に事欠かないらしいが、本名より「委員長」という代名詞で語られる機会が多いというのが、微妙な周囲の心情を表している気がする。

 僕は委員会選挙にも活動掲示板にも関心がなく、本名も顔も知る機会がなかった。きのう意外そうな顔をされたのは、自分を知らない二年生がいたことに驚いたのに違いない。

「へー。通告~?」

 ここにもう一人、大物がいた。上村の言う学園有名人ナンバー1であり、才媛という点では委員長と同格だが、真面目さとは対極にある。

「そうです。これまで中央執行委員会は活動が滞っているいくつかの学会に対し、解散も視野に含めた警告を何度も行ってきました」

 僕たちが呆然とする中で一人、会長が面白そうな笑みを浮かべている。

「そして二週間前、何らの改善がみられない宇宙科学会に対し、解散手続きの開始に関する最後通牒と、六月一日の最終弁明会の開催を通告しました。これは確認ですが、掲示板をご覧になったのですか?」

「えーと、どうだっけ。トモちゃん?」

 会長が、導火線に火がついた爆弾を朋夏に投げた。

「ええっ!? あのー、はい、見ました……けど」

「見たんですね。つまり部として解散命令は認識しているのですね?」

「いやその、見たけど、それはあたしが、あたしの、あたし個人としてあくまでですね……」

 朋夏の言動が支離滅裂になっていく。両手が爪とぎをする猫のように、空中を必死にかきむしっていた。

「解散命令を掲示板に張り、それを部員が認識しながら、丸一日たってもまったく反応がありません。前代未聞のことです。これはどういうことですか?」

「あらあら……そんな不届きな団体が?」

「あなた方のところです!」

 委員長がばんと机をたたき、安普請の学会棟が、軽く揺れた。

「あ、そうだったの。ふーん」

「まさか掲示を認識していないのではないかと思い、こうして直接口頭で、解散を伝えにきた次第です」

「ほうほう、それはまたご丁寧に。ありがとうございます」

 これは、会長がまるで相手にしていない時の態度だ。真面目な委員長が急にかわいそうになってきたが、どうすることもできない。

「本来なら解散通知を出した時点で済んだのですが、まさか確認にも来ないとは想定外でしたので、きちんと通知が伝わっているのか確認に来たのです」

「委員長なんだからそんな雑用、下級生に任せればよかったと思うよー」

 会長ののんびりした口調は、変わらない。

「……委員たちには、それぞれの仕事がありますので」

 委員長が一瞬、言い淀む。僕はその瞬間、勝敗がついたことを悟った。

 会長はこういう相手の隙を、決して見逃さない人なのだ。

「ヒナちゃん、それって下級生に見くびられているんじゃないかなー」

 あ、さっそく爆弾を置いた。

「な、なんですってえ? そ、それに、馴れ馴れしくヒナちゃんって……」

 委員長の顔が、熟した柿のように真っ赤になった。

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「だって普通は下級生が率先してやるべき仕事だと思うなー、そんな伝令みたいな雑用!」

「伝令って……た、頼める人がいたら、頼んでました!」

 委員長、会長相手に下手な反撃は、被害を大きくするだけですよ。

「つまり、いなかった、と。誰も? 一人も?」

「それはたまたまです!」

 会長が笑みを浮かべている。「いいオモチャを見つけたぞ」て感じの、邪悪な笑みだ。

 それにしてもこの委員長、やっぱり根はすごくいい人なんだと思う。会長の人を食ったような質問にも誠実に答えようとしているし、何より委員会の外にも内にも、中央執行委員長という権威を振りかざすことはしないようだ。

「そうなんだ……もしかして、いつも委員会で貧乏くじを引かされているんじゃないかなー」

「え? そんなことは……」

 委員長の顔から、血の気が引いて青くなってきた。今や完全に、会長のペースだ。

「ダンボ―ル書類の整理とか、雑用ばかり請け負ったりとかさー」

「それは、必要だと思うから率先してやっていることで……」

「委員会室の掃除も一人でやったりとかー」

「……みんなに、気持ちよく使ってもらえれば、私は……」

「過去の活動記録の電子化とか、書類一人で打ち込んでたりして! あははは」

「……」

 会長、あなたは恐ろしい人です。委員長の顔が、とうとう真っ白になりました。

「ヒナちゃん、顔色が白黒変わってかわいいね」

「だ、だからそのヒナちゃんっていうの、やめてください! からかってるんですか?」

「うん!」

 会長、あなたは笑顔をかぶった悪魔です。

「なっ……なんて失礼な!」

「ヒナちゃん、どうして怒るのかなー?」

 会長、あなたが怒らせているからです。

 委員長の顔が再び真っ赤になり、確かに湯気が立った気がした。こうなったら、もうキレるかヘコむかしかないだろう。ただ、泣くのだけは勘弁してほしい。会長のことだから、計算ずくでいじっているとは思うが。

「……こほん」

 ところが委員長は、ここから自力で立ち直った。長い伝統を誇る執行委員会でも逸材という看板は、伊達ではなかった。

「ええと、つまりですね。きょうは解散命令を出した執行委員会の責任者として、理由の説明に伺ったのです。お話を進めてよろしいでしょうか?」

「いいわよ、じゃあ話し合いましょ。適当に座ってくれる? あと湖景ちゃんは、お茶を入れるといいよー」

「は……はい!」

 彫像のように椅子で固まっていた湖景ちゃんが、ばねにはじかれたように立ち上がって、右手と右足を同時に動かしながら、給湯室に向かった。