二次創作小説「水平線の、その先へ」

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16章 輝く未来の 懸け橋に(7)

 

 8月5日(木) 北の風 風力3 雨

 今朝は珍しく、朝から雨模様だった。

 東京に出てきたのは、一昨年の暮れ以来だ。コンサートの後、一度も踏み入れなかったコンクリートと雑踏だらけの町に、僕は相変わらず好意を持つことができない。要するに僕は、生粋のイナカの高校生なのだ。

 オフィス街である大手町のど真ん中に、会長の父親が経営する企業があった。世界でも名を知られる一流企業。真下から見ると、傲然と天に聳え立つビルは、まるでバベルの塔のように見える。僕のような人生のヒヨっ子にとっては畏怖の対象でしかない。

 無謀なのは承知だ。門前払いも当然だろう。そもそも、ここに会長の父親がいるかどうかもわからない。僕は内心の不安を顔に出さないよう、正面から堂々と入った。

 ロビーには多くのビジネスマンが往来していた。僕は私服であることを後悔したが、自宅に戻ってもスーツさえないから、後悔しても仕方がない。意を決して、受付の案内嬢に向かって、まっすぐに歩み寄る。

「おはようございます」

 案内嬢は、完璧なお辞儀をした。僕もあわてて、頭を下げる。

「あの、古賀さん……その、総帥の娘である古賀沙夜子さんの父君に、お会いしたいのですが」

 世間から青二才と呼ばれるであろう高校生から「総帥」という言葉が出て、鉄面皮の案内嬢も一瞬、たじろいだ。

「あの……古賀総帥、と仰いましたか?」

「はい」

「失礼ですが、どのようなご用件でしょうか」

「ですから、お嬢さんの沙夜子さんのことです。僕はお嬢さんと同じ内浜学園高等部の生徒で、平山空太と言います。お嬢さんと同じ宇宙科学会のメンバーで、一緒にモーター飛行機を作っている。そうお伝えください」

 案内嬢は、ますます困惑していた。

 会長は、東京から車で二時間はかかる東葛で一人暮らしをしている。教官や会長の話から、父親は娘に目をかけてはいるが、会長は父親の干渉を嫌っているように見える。

 父親は、娘がLMG大会に参加することくらいは、耳に入っているだろう。大会まであと二日、父親なら娘の近況を知りたいと思うのではないか。そんな理由で会ってくれるのか本当は自信はなかったが、他にいい手段も浮かばなかった。

「……少々、お待ちください」

 受付嬢は、表面上は落ち着いた様子で、だがちらちらとこちらを見ながら、内線電話をつないでいた。あるいは不審者として、警備員に引っ張られるかもしれない。あっさり多忙、不在と断られるかもしれない。そうなったら、どうやって言いくるめればよいのだろう。

「……かしこまりました」

 案内嬢は、電話を置いた。そして、

「二十六階にお上がりください。秘書の者がご案内をいたします」

 と、あっさりと通されてしまって、僕は拍子抜けした。

 入り口のセキュリティチェックは厳重だった。金属探知機のようなものをあてられ、鞄の中のミニコンと携帯電話は没収され、帰りに返却すると言われた。

 それが終わるとボディーガードのような屈強な男が現れ、僕を「来客用」と書かれている赤い絨毯張りのエレベーターに乗せた。エレベーター待ちをしているビジネスマンたちの、物珍しそうな視線が痛かった。

 二十六階にたどりつくと、男が僕に恭しく頭を下げ、左手でエレベーターの扉を押さえた。「通れ」という意味らしい。エレベーターを降りると、これまた完璧なお辞儀をする年配の女性が待ち受けていて、「どうぞこちらに」と、僕を案内した。廊下はやはり絨毯で、木張りの壁には歴代の総帥と思しき写真がずらりと並んで、僕を見下ろしている。

 突き当たりにある重そうな木の扉は、開いていた。女性がそこで一礼し、僕を中へと促す。

 一歩足を踏み入れると、左全面がガラス窓になった大きな部屋で、雨雲の下の東京タワーやらベイブリッジやらが、一望できた。絶景に見とれていると、部屋の奥でぱたんとパソコンを閉じる音がして、スーツをまとった影が動いた。

「平山空太君だね。よく来てくれた。どうぞ、おかけなさい」

 なんとなく、いかめしい老人を想像していたが、会長の父親は長身でハンサムな壮年だった。会長が美人なのも納得がいく。頭髪に白いものが交じっているが、身だしなみは素晴らしく整っていて、英国紳士という言葉が頭に浮かんだ。

 僕はそこで自分がぼーっと立っていたことに気づき、はじかれたように動いて、部屋の中央にあるふかふかのソファに座った。

「初めまして……あの、僕を知っているんですか」

「よく知っているよ。沙夜子からも聞いている」

 総帥が座ると、すぐに先ほどの女性が入ってきて、僕と総帥の前にコーヒーを置いていった。僕は情けないことに、せっかく相手の懐に飛び込むことに成功したのに、何を話したらよいのかが、頭から消し飛んでいた。

「沙夜子は元気でやっているかな」

「あ……はい。僕たちの宇宙科学会で会長をしていただいています」

「LMG大会に出場するそうじゃないか。飛行機の調整は、順調かな?」

「え……ええと、その、何とか当日までには、うまく調整できるんじゃないかと思います」

 こっちが聞かなければいけないのに、完全に向こうのペースだ。

「それで、君がここに来たということは、沙夜子のことで何か聞きたいことがあるのではないかな?」

 総帥が、僕の目をじっと見た。最初は会長の学校生活の様子を話し、総帥の興味を引いてから切り出そうと考えていた。しかし単刀直入に切り込まれてしまい、僕は正面から答えざるを得なくなっていた。

「あの……実は会長を……自由にさせてほしいのですが」

「自由?」

「はい」

 総帥がコーヒーを手に取り、軽くくゆらせた。苦い香りが総帥の周りを包んだ。

「つまり聞きたいことは沙夜子の進路のことかね」

 僕は黙って、うなずく。

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「沙夜子は内浜学園を卒業したら、私の下で働かせる。そしていずれはグループを継ぐことになるだろう。初対面の君に話すのは、秘密でもなんでもないからだよ。会社のすべての人間が古賀グループの将来を承知している。そして沙夜子は私の見たところ、経営にも十分な才能があるようだ」

「会長は、自由が欲しくて内浜学園に来たと、仰っていましたが」

「沙夜子が自由を、ね……」

「卒業したらお父様の思う通りに生きる。そう約束したそうですが」

「その通りだ」

「それって勝手じゃないですか! 子供が何をしたいかなんて、親が全部決めていいのですか?」

 思わず言葉が強くなったことに気づき、「すみません」と小声で謝った。

「条件を出したのは私だ。だが、それを承諾したのは沙夜子だ。親子といえども契約には厳格でなければならん」

 実の娘との約束を「契約」と言いきって、総帥は表情をまったく変えない。僕は不快感を覚える。

「しかし……会長はその時、まだ中学生でしょう?」

「私は沙夜子に常に大人であれと教育してきた。大人のルールに従うこと、それは沙夜子がよく理解していることだ。私の条件に不満なら、沙夜子には私と交渉する権利があった」

「交渉とか、権利とか……!」

「平山君。君は私と沙夜子のことを誤解しているのではないか?」

 総帥が僕の目の前で、指を組んだ。

「沙夜子はいつでも私から自由になれる。だが沙夜子はいつも私の意に沿うように行動してきた。それは沙夜子自身の意思だ」

「違う。あなたは会長を脅してきたんじゃありませんか? 会社を引き継がなければ会社が潰れるという言葉で」

「血筋と能力の双方を備えた沙夜子の存在は将来の会社を安定させる、最も効果的な道だ。私は事実を指摘したまでだ」

「会社は世襲じゃないでしょう!」

「高校生の君に会社の論理は早いかもしれん」

 総帥は、まるで動じる気配がなかった。

「総合商社であるこの会社を一つにまとめるもの、それは古賀グループの血族がトップであり続けることだ。それは一面、論理性と利益追求を尊ぶビジネスの論理にそぐわないが、同時に厳然たるビジネスの論理でもある」

 総帥は、胸をそびやかす。

「どんな会社であれ、派閥はある。古賀グループの活力は他に類を見ない自由の気風の中で、多様な意見を戦わせる派閥が圧力をかけた均衡の上に成り立つのだ。その異能な集団をまとめることが可能なのは唯一、象徴としての創業者、古賀一族だ。無論、経営の実力は絶対条件だが、トップが強い古賀であることが今日の古賀の強さの源泉でもある」

 それは時代遅れではないか、と口まで出かかった。ただ高校生の僕が、会社のあり方に口を出しても仕方がない。

 しかし、これだけは言いたかった。

「僕は宇宙科学会の分裂を恐れました。でも、それで僕が何も言わなかったことが僕たちの亀裂を深刻にしました。亀裂を恐れて変化を恐れるのは、結局、問題を先送りにするだけではないでしょうか」

「高校生の部活動に人の生死はかからん。だが古賀グループの分裂は、権力争いにとどまらない。トップが混乱した時の最大の被害者は末端の子会社だ。グループが分裂すれば、例えば東葛の町工場の半分が切られ、従業員の半数が職を失う。君は変革のために、それを実行できるのか?」

 総帥の声は最後まで落ち着いていた。そして僕には反論できなかった。

「ですが……会長の人生とは、別問題だと思います」

「私の周囲で、君のように馬鹿正直に正論を振りかざす奴はいない。蟷螂の斧と言うべき気概だ。沙夜子が君を認めるのも、よくわかる」

 これは総帥が、僕を認めてくれたと言ってよいのだろうか。

「そして話を沙夜子に戻したことも正解だ。今、私と君が話し合うべきことは私の会社の将来ではなく、君の友人である沙夜子の将来だからな」

「総帥、お願いです。約束は約束としても、会長を……沙夜子さんの将来を、なんとか自由にしてあげられないのですか」

「沙夜子はいつでも自由だ。私の庇護を離れるという決心さえつけばな」

 総帥はそう言い切った。

「沙夜子が悩むのは、沙夜子自身が私から離れることに踏み切れないからだ。沙夜子を自由にしたいのなら、それは私に頼むことではなく、沙夜子の心を変えることだ……さて、私は仕事に戻る。そろそろ、いいかな」

 僕は焦った。会長の心を変えること、結局はそこに行き着く。だが僕は、それができなかったから、ここまで来たのだ。そして、このままでは何一つ得ることがない。総帥の背中を見て、とっさに言葉が出た。

「すみません、もう一つ教えてください!」

 ここまで来たらダメでもともと、当たって砕けろだ。

「二年前の桐花バイオリンコンクールのこと、ご存じですよね。あの時に会長に何があったのか、もし知っていたら教えてくれませんか?」

 ふむ、と総帥が呟いて振り向いた。

「君はその時の特別奨励賞の受賞者だろう? 音楽学校の推薦を蹴った」

 驚いた。総帥は僕のことを、そこまで知っていた。

「沙夜子は、何も話していないのかね。それで私のところに来たのだと思っていたが」

「聞きました……でも、仔細はわからなくて」

 それを聞くと、総帥は再び腰を降ろした。

「そうか……でも私が話せるのは、その時の沙夜子の様子だけだがね」