7章 鎖を断ち切る 闘いは(1)
7月8日(金) 北西の風 風力3 晴れ
期末試験が終わった。午後から一週間ぶりに、部活が始まる。
この四日間、僕は朋夏以外の宇宙科学部員と誰にも会わず、連絡も取らなかった。試験の手ごたえはというと、前回の中間試験と似たりよったり、という印象だ。
前回はすべて一夜漬けで、赤点すれすれでクリア。今回は三日前から準備したわけだが、その分内容も難しくなっていたので、点数が伸びないのも致し方ない。採点結果は来週の授業で返されるから、一週間後には当落が判明するはずだ。
結果的には赤点絶対ナシという保証がないのが、僕の辛いところだ。試験前から覚悟したものの、知識の積み重ねが必要な理科・数学系と古文・漢文が明らかに失敗している。
特に物理は、試験中に転がした鉛筆の目に赤点脱出がかかっているといっても過言ではない。そんなことを言うと心配をかけるだけなので、みんなには五分五分と伝えることにしよう。
ただ前回と違うのは、自分なりにやれるという手ごたえがあったことだ。会長や名香野先輩、一年の湖景ちゃんにまで指導してもらったおかげで、各教科の勉強のコツをつかんだ気がするし、勉強した範囲ではまったく理解不能という問題に当たっていない。
同級生に比べ三周遅れくらいだから、今回の試験で追いつけないのは当然だが、トップスピードで走り続ければ、卒業までには挽回できるかもしれない。大会が終わったら残った夏休みに塾に通うのもいいな、と思う自分が我ながら不思議だった。
最大の焦点である朋夏はというと、こちらは毎日、朦朧とした様子だった。試験中はそれなりに鉛筆を動かしていたようだが学校の行き帰りにも脱力していて、周囲ともほとんど会話していない。そして日に日に目の下のクマが濃くなり、頬がこけていった。
最後の試験が終わった直後に、手ごたえを聞いてみると
「わかんない」
と、即答された。
「大体はわかるだろう。半分とか、何は良くて何はダメだったかとか」
「わかんない」
相変わらず、抜け殻のような声だ。
「ずいぶん書いていたみたいじゃないか。結構できたんじゃないのか?」
「わかんない。会長が何でも書けっていうから、たくさん書いたけど。でも正解なのか間違っているのかが、全然わかんない。だから可能性は0点から百点まで。あ、さすがに百点はないか。あはははは」
それはまたアバウトな自己採点だ。平均をとって五十点と解釈するなら赤点は回避するはずだから、よい結果と解釈しておこう。
試験期間中は、お昼で学校は終わりだ。校庭で活動を再開した野球部やサッカー部の歓声にも、いつもと違う解放感がある。
学食で朋夏と昼飯を食べ電車に揺られて旧校舎に近づくと、自然に胸が高ぶってきた。
久々にみんなに会える。完成間近の飛行機に会える。
あの青い空と海も、涼しい西風も、教官のダミ声も、古ぼけた格納庫も、ほんの数日間なのに、何もかもが懐かしい。朋夏は道中ほとんど喋らなかったが、それでも旧校舎に近づくと、表情が生き生きとしてきた。朋夏も同じ感慨を抱いているのだろう。
宇宙科学会がロクな活動をしていなかった時期は、一週間くらい顔をあわせなくてもどうとも思わなかった。目的ができて、みんなで協力する。そんな毎日を過ごすうちに、僕たちも変化しているのかもしれない。
格納庫に着くと、すでに湖景ちゃんがいた。いつもの作業服に着替え、飛行機や部品をチェックしている。試験期間中、格納庫は施錠していたが、何せ朋夏を乗せて空を飛ばすものだけに、常に異状がないかを調べる慎重さは必要だ。こういう細かい作業に気づいて決して嫌がらないのも、湖景ちゃんの良さだった。
「どうでした、平山先輩、宮前先輩!」
「全力でやったよー。後は運天だねー」
朋夏が笑顔を作り、湖景ちゃんは少しほっとしたようだ。湖景ちゃんの試験の出来を聞く必要はないだろう。
「会長は?」
「市役所に飛行計画の許可申請に行きました。土日だと役所がしまっちゃうから、と」
とりあえず、きょうの市役所の人の無事を祈っておこう。
「名香野先輩も見えないね?」
「実は、それが……」
湖景ちゃんが口ごもった。
「試験中に体調を崩してしまって。疲労の蓄積と風邪らしいんですけど、おとといは試験を受けていないんです」
「えーっ!」
僕と朋夏が同時に天を仰いでしまった。ということは絶対安全牌と思っていた名香野先輩が赤点……。
「じゃ、宇宙科学会は、解散?」
朋夏が金魚のようにパクパクと口を開けた。
「いいえ、正当な理由での病欠だから追試よ」
名香野先輩が、いつのまにか腕を組んで後ろに立っていた。
「名香野先輩! 大丈夫なんですか?」
朋夏の心底心配そうな顔に、先輩は微笑んだ。
「うん、きょうは大分楽になったわ。追試は月曜日の放課後になったけど」
「先輩、無理させちゃってすみません」
僕は頭を下げた。先輩は委員会活動、飛行機作りに加え、僕と朋夏の勉強の面倒まで見た。過労の原因の半分以上は、僕たちが作っていた。
「あたし今回赤点脱出したら、一生名香野先輩に足を向けて寝ないことにします!」
殊勝な心がけだ。だが僕は、朋夏がいつどこでもどんな体勢でも寝る時は寝てしまうことを知っている。
「それより休まなくていいんですか? 追試の勉強だって必要でしょう」
「もうすぐ機体が完成すると思うと、帰って寝る気にもなれなくてね……だからきょう、なんとしても機体を仕上げましょう。そしたら土日はゆっくり休んで勉強させてもらうわ」
要するに名香野先輩を動かしているのは、宇宙科学会に対する責任感なのだ。こうなったら、帰ってくださいと言っても無理な人だ。
「姉さん、飛行機は私たちで作りますから」
「いや湖景ちゃん、むしろ飛行機を早く作ってしまおう。それで先輩に、ゆっくり休んでもらうんだ」
「助かるわ、平山君。じゃあ、始めましょうか」
「でも無理はしないでください。力仕事は僕がやります。とりあえず先輩は座っていてください」
「……そうね、じゃあそうさせてもらうわ」
名香野先輩は、それでも心配そうな湖景ちゃんの顔を見て、安心させる方法を選んだようだ。それでようやく湖景ちゃんも作業の準備に入った。
その時、教官が顔を出した。
「宮前、久しぶりだな。試験は大丈夫か?」
朋夏は、敬語にした以外は湖景ちゃんに話したのと同じことを言った。
「全力を尽くしたか。結構だ。体を動かすのは久しぶりだろうから、きょうは軽い運動で体をほぐしてくれ」
「オス、了解です。体を動かす方はOKです」
朋夏は喜んで、更衣室に着替えに向かった。
「あれ……機体が少し動いている」
その時、飛行機を見つめていた湖景ちゃんが呟いた。
「え、何?」
「いえ、確か前回作業を終えた時、機首は壁側を向いていたんですが……きょうは少し斜めを向いている気がします」
そうなのか? よく覚えていない。でも、もしそれが事実だとすると……。
「湖景ちゃん、それって、試験期間中に誰かが飛行機を動かしたってことかい?」
「飛行機を動かしたのは俺だ」
教官が事もなげに言った。
「エンジンを付け替えてバランスを心配していただろう? 今回の大会は、既存の飛行機を改造する団体も多いので、大会規定で事前に主催者が機体の安全性を確認することになっている。お前達が試験を受けている時間を使って検査機関の人間を呼び、モーターと機体のバランステスト、検量検査を終了させた」
教官、やるべきことはやっているじゃないか。
「タンクの問題は未解決だから、この先もテストは必要と思うがな。まずは合格した、と言っておこう」
これで、第一関門は突破だ。
「じゃあ平山先輩、まずは飛行機に乗せたモーターを起動してみましょう」
「了解」
指示を出す湖景ちゃんに、いつのまにか頼もしさが加わっていた。