3章 ゼロから始まる 挑戦で(7)
6月11日(土) 南東の風 風力1 晴れ
昨日の夜は、珍しく雷雨になった。今朝になると雨は上がっていたが、道路にはかなりの水が残っていた。
土曜日の授業は、午前中で終わりだ。朋夏と湖景ちゃんと一緒に旧校舎に行こうと思っていたら、放課後に担任の先生に呼び出された。先生は、二年生になって授業に出ないことが増えた僕を軽く注意したが、怒りはせず、むしろ「何か悩み事でもあるのか」と、心配してくれた。
僕はちょっと罪悪感を覚えたが、できるだけあいまいに答えておいた。下手に熱意がわかないとか正直に答えてしまうと、悪い先生ではないだけに、放課後に親切で補習とかを組まれかねない。
そうなると、ただでさえ僕の負担が大きい作業スケジュールは完全にご破算になる。期末テストの件もあるし、ここは無理してでも授業はきちんと出て勉強も真面目にして、先生の気遣いを除いたほうがいいかもしれない。
学園近くの駅から電車に乗り、終点の内浜駅で降りて、海沿いの国道を歩く。
途中のコンビニで弁当とお茶を買った。このコンビニは、かつて「内浜学園前」という駅だった。内浜港行きの鉄道の廃線で駅も廃止になったが、レトロな駅舎が住民のお気に入りだったそうで、外観をそのままに中が改造された。
港が寂れたとはいえ、国道は平日にはトラックの交通量が多く、休日には車でスカイスポーツをしにくる人が頻繁に立ち寄る。この付近は飲食する場所も少ないから、コンビニとしては意外に流行っているようで、弁当の種類が豊富だった。これからお世話になる機会が増えるかもしれない。
コンビニから旧校舎までは緩い坂道を上がって約五分。日差しはきょうも強く、昨日の雨のせいで妙に蒸し暑く、歩くのが辛かった。
旧校舎に着くとまっすぐに飛行機の格納庫、つまり倉庫に向かった。機体の様子を見るためだ。きのうは平日にしては珍しく、湖景ちゃんに一度も会わなかった。湖景ちゃんは四月末に入部して以来、ほぼ毎日、部室に入り浸っている。会わなかったのは五月中旬の一日だけで、その時は病院に行くとか言っていた。
格納庫には一昨日に分解した木箱と部品が、ほぼそのまま残っていた。床の真ん中に小さなセーラー服がいっそう小さくなって、丸まっていた。
「湖景ちゃん……大丈夫?」
僕が声をかけるとセーラー服がむくりと動いて、かわいい顔がこちらを向いた。しかしその目は真っ赤だった。
「ぜ……」
「え、何?」
「ぜ……全然……わかりません……」
湖景ちゃんの声が、ほとんど半泣きになっていた。
床には設計図と部品表、航空工学の本が散らばっており、湖景ちゃんはその真ん中でぺたりと両ひざをついてしゃがみこんでいた。
「落ち着いて。何がわからないのか言ってごらん」
僕は湖景ちゃんの脇に座り、子供をあやすように優しく言ってみた。
「全部です……無理です……こんなたくさんの部品。とりあえず最初から最後まで、設計図の作業は頭に入れて……教官さんの本で、航空工学から見た部品の意味を覚えながらと思ったのですが……どこからどう手をつけていいのか、まったくわからなくて……」
「設計図を全部? 頭に?」
「はい……でも、何もできないんです、私……」
湖景ちゃんはがっくりと頭を落とし、長い睫毛を伏せてしまった。
きのう組んだ作業スケジュールは相当にタイトで、湖景ちゃんが昨日の作業で、基本的な部品の確認は終了することを前提としていた。機体製作は、いきなり作業初日から、丸一日のロスである。こんな調子で、本当に飛行機ができるのだろうか。
湖景ちゃんは多分プラモデルとか工作とか、男の子なら子供の時に一通り通過してくる作業をやった経験がないのだろう。プラモを作る時、設計図や部品を最初から最後まで頭に入れるなんて芸当はしない。キットは順序通りに部品を組み立てていけば、全体像など見えなくても自然に組みあがるようにできているのだ。もちろん相手は飛行機だから作業をおろそかにはできないが、もともと素人が組み立てることを前提に作っている代物で、難しいといっても限度はある。そのくらいはわかって当然と考えてしまい、女の子の湖景ちゃんに事前にアドバイスしなかったのは僕の落ち度かもしれない。
「よし、まずは部品の確認から始めよう。欠品があったり不良品が見つかったら、週明けにすぐに交換か調達をしないと日程的に間に合わない。全部の部品が正しくそろっているか、へこみやゆがみや曲がりがないか、ネジ一本に至るまで目で確認するんだ」
「そのあとは……どうするんですか?」
「わかる部分、簡単な部分から作り始める。設計図を頭で覚えたり、理屈を考えるだけじゃ飛行機は作れないよ。まず部品を手にとって、実際に組み合わせてみるのが先。部品の意味を考えるのはその後でいいと思うよ」
「はい……はい!」
プラモデルを作った時はもっといい加減だったが、これは人を飛ばす飛行機だ。いくらスケジュールがタイトでも、最初の確認作業を怠るわけにはいかない。部品を初日に木箱から出しておいただけでも正解だった。
それから僕は手近な部品を手に取り、それが作業のどこで必要になるのか、確認を進めていった。湖景ちゃんはどの部品も設計図のどこでどう必要かを、正確に把握していた。これを覚えるのに一日かかってしまったのだろう。ところが、がんばって覚えてみたもののどうすれば組み立てられるのかがまるでわからず、途方に暮れていたわけだ。
次に作業手順の流れに合わせて部品をひとまとめにし、格納庫内の壁際に並べていくことにした。
後から必要になる主翼などの大型部品は、格納庫の奥に寄せておく。格納庫の中央を開けて作業場とし開き扉の左側から部品を組み立て始め、ぐるり一周すればめでたく飛行機ができあがる、という寸法だ。
空いた木箱にマジックで「1」「2」などの数字を書き、これを部品の近くに置くことで全体の工程を管理できるようにした。湖景ちゃんは僕の指示で、なんとか作業をこなしていった。
一通り部品の配置が終わった頃には、早くも日が傾きかけていた。男手が一人しかないので、大きな部品を動かすのには苦労した。もちろん航空機の部品なので軽くは作ってあるが、逆に壊さないように扱うのが大変だ。
「部品の数はそろっているようだけど。問題は不良品のチェックだな」
「平山先輩、本当にありがとうございます……あの、私が部品チェックをやりますから、平山先輩は少し休んでください」
「大丈夫? 結構たくさんあるよ」
「一応、部品の形とかは頭に入っていますので。私、少しがんばってみます。あの、わからなくなったら、ちゃんと呼びますから」
「わかった。じゃあ近くにいるから、いつでも呼んでくれていいからね」
湖景ちゃんの顔に、いつもの元気が少し戻っていた。僕はいったん格納庫を出て、グラウンドで休むことにした。
「空太あ。そっちはどう?」
僕の姿を見て、元気に駆けてきたのは朋夏だ。ロードワークから戻ってきたらしい。汗でTシャツが濡れているが、顔は平然としている。
「湖景ちゃんが相当参ってたけど、何とかスタートしたところ。会長は?」
「あたしが走る前に、教官と一緒に車で出ていった。機体作りに必要な工具を一通りホームセンターで調達するんだって」
朋夏は僕がコンビニで買ったスポーツドリンクを奪い取り、ぐびぐびとラッパ飲みして見せた。そういえば弁当を食べるのをすっかり忘れていた。
「そうかあ。湖景ちゃん、苦戦しているんだね」
二人でグラウンドに腰かけ、僕は弁当を食べながら、格納庫の様子を朋夏に話してやった。
きょうの作業で実感したのは、やはり機体作りのリーダーを湖景ちゃんに一任するのは無理があるということだ。少なくとも組み立て作業の何たるかを理解するまでは、指揮も僕が中心にならざるを得ない。
教官によると、コックピットの組み立てに目処がつけば機体や計器を制御するプログラムの調整が必要になるというから、湖景ちゃんはそちらに全力投球した方がいいかもしれない。いずれにせよ昨日作った作業スケジュールの割り当ては、大幅に変更を余儀なくされるだろう。
「ふーん。あたしも訓練の合間に、できるだけ作業を手伝うことにするよ。自分の乗る飛行機のこと、よく知っておきたいしさ」
「助かる。パイロットにその辺の負担はなるべくかけたくないけど、空いた時間には頼むよ」
「そうだ空太。あしたの午前中なんだけど、あたしの訓練につきあってくれない?」
朋夏によると、明日は日曜日なので、内浜市の市民滑空場でグライダーの体験飛行があるという。まだ操縦するような段階ではないが、飛行機の感覚に慣れたほうがいいという教官の判断だった。費用は会長が学会活動費から出すという。これまでの合宿やハーフマラソン大会はすべて遊びのようなものだから、バイトで稼いだ上での自費参加だった。会長が中央執行委員会から配分される活動費を使うのは、多分初めてではないかと思う。
「ああ、いいよ。湖景ちゃん、明日も休日返上で作業すると言ってたけどチェックにも時間がかかるだろうし。事情を話して、僕は午後から合流することにする」
「やった! 一応最初の飛行だから、空太にも見て欲しくってね」
「あの……平山君……よね?」
突然、背後で女性の声がした。びっくりして振り向くと、僕の顔をうかがっていたのは委員長だった。
「あ……どうも、わざわざ」
「……ごきげんよう」
二人とも変なあいさつだった。だがそれよりも、なぜ旧校舎に委員長が来たかの方が気になった。また会長が問題を起こしたのだろうか。
「平山君と古賀さんは部室で作業じゃなかったの?」
「いいえ、きのうの僕たちは完全に事務作業だったので部室でやりましたが、作業は原則として全員旧校舎でやるんですよ」
「そう……そうだったんだ」
「それより、きょうはまたどういうご用件でしょうか? 会長はちょっと留守にしているんですが」
恐る恐る聞いてみる。だがどぎまぎしているのは委員長も同じだった。
「えっと、それは……きょうは古賀さんじゃなくて、あなたがたがちゃんと活動しているかチェックするためとか……」
「とか?」
余計な一言だった。
「本件については私も絡んだことなので、様子を見にきただけです!」
会長がいないとわかったためか、口調が急に強気になった。これで不思議に嫌な気がしないのは、委員長の人徳かもしれない。
「いや……今のところ、特に問題はないですが」
「そうですか。順調なのはいいことです。ところで……」
また委員長がもじもじし始めた。
「はい? まだ何か?」
朋夏が問い返すと、委員長が上目遣いに僕を見た。
「平山君……彼女は、いないの?」