14章 無窮の闇に 囚われて(4)
「湖景っ!」
名香野先輩が走り寄った。湖景ちゃんはその呼びかけに答えることもなく、肩を揺すって目を覚ますこともない。気持ちよさそうに、静かな寝息を立てるだけだ。悪い予感がした。これは朋夏よりずっと重症ではないか。
「誰か人を……いえ、救急車を!」
名香野先輩が狼狽した声を上げ、僕は会長と教官を呼びに、格納庫を飛び出した。
病院の手配は、ほとんど会長がやった。会長は冷静で、まず病院に湖景ちゃんの状態を連絡し、医者から救急車は必要はないこと、ただ安静にして病院に連れてくることなどの要点を聞き出して、着実に実行した。
タクシーが到着し、目を覚まさない湖景ちゃんを、みんなで運んで乗せた。名香野先輩が当然のように同乗しようとするのを会長が止める。
「連絡したから、きっとお母さんも病院に来るよ。心の準備はできているの、ヒナちゃん?」
先輩の動きが止まった。
「ここは私に任せて。あとトモちゃん、一緒に来てくれる?」
「あたし、ですか?……はい、わかりました」
こうして病院には会長と教官、朋夏が付き添い、後には僕と名香野先輩、花見が残された。
それからは作業にはならなかった。一日で二人も気を失うとは。僕たちのスケジュールには、やはり無理があるのだろうか。名香野先輩は食堂でじっと涙をため、僕も花見も、ただ呆然と食堂のいすに座っていた。
「湖景ちゃん、きっと大丈夫ですよね」
僕は呟いた。壁時計が時を刻む静かな音が、耳に痛くなってきたからだ。
「あなたは……何を他人事みたいに言っているのよ」
名香野先輩の瞳がいつもと違う硬質の光をたたえ、僕をにらみつける。
「あなたが……あなたが無理をさせた張本人じゃない。なのに、こんな状態になるまで何でほっといたのよ!」
僕は一言も言い返せなかった。湖景ちゃんに、いろいろな経験をさせたい。そうしている中で湖景ちゃんは成長し、そして壁にぶつかった。
しかし湖景ちゃんはいつになく前向きで、無理を押してがんばっていた。それを止めなかったのは、ここで壁を乗り越えればきっと湖景ちゃんは成長する……そんな思いがあったからだ。
それが最悪の事態を招いてしまった。僕が体を張ってでも、湖景ちゃんの無理を止めなければいけなかった。
「平山君だけが悪いんじゃありません。それは多分、僕も、名香野先輩も」
「私?」
名香野先輩の鋭い視線を向けられても、花見は冷静だった。
「だってそうじゃないですか。きょうの作業を止めなかったのは先輩も同じです。なぜ平山君だけを責めるんですか?」
「あたしは……平山君を信頼して!」
「津屋崎さんの体調の変化に気づかなかったのは同じことです。というより、頭のいい名香野先輩なら、わかってるんじゃないですか。八つ当たりする相手が違うって」
「八つ当たりって……!」
一瞬怒気をひらめかせたが、先輩はすぐにがっくりと肩を落とした。
「ええ……その通りよ。同室で姉の私がわかってやれなかったのが、一番悪かったんだわ」
「先輩、すみません。言い過ぎました。自分を責めないでください。津屋崎さんの異状に気づけなかったのは、僕たち全員に責任があるんです」
「いいえ。こんな私が姉貴面なんて、しちゃいけなかったんだわ……」
それだけ言うと先輩はうつむいてしまって、後は何もしゃべらなかった。
九時過ぎになって三人が戻ってきた。ただ朋夏は「疲れた」と言って、部屋に直行してしまう。食堂に集まったのは教官を含めた五人だ。
「どうでした?」
「コカゲちゃんは一晩入院。二年間寝ていた時期に比べるとずっと意識レベルは高いみたいだから、朝には目を覚ますって。疲れがたまると時々ああなるみたいだね」
会長の言葉に、とりあえず胸をなでおろす。
「じゃあ明日には作業に戻れますか?」
「馬鹿なこと言わないで」
ぴしゃりと言ったのは、名香野先輩だ。
「もう無理よ。湖景に無理はさせられない。あす家に帰すわ」
「平山君、僕も同感だ。津屋崎さんを除いたメンバーで善後策を考えるべきだと思う」
「俺にも監督者としての責任がある。津屋崎に作業をさせるわけにはいかない」
言われてみなくても、その通りだ。湖景ちゃんの命は趣味の大会なんかより、はるかに重い。
「だけど教官、システムはこのままで大丈夫なのでしょうか」
「ピッチ角の自動調整はあきらめるしかないだろう。だがそれ以外の部分ではシミュレーターも機体制御も完成している。このまま不具合がなければ現状でも大会で飛ばすことは可能だ」
「朋夏の気絶の件はどうなるんです? このままシミュレーターでもできなかったら、水面飛行もあきらめるしかない。それでいいんですか?」
「できる範囲で最大限の挑戦はするが、初めから失敗とわかっていることをやらせるわけにはいかない。飛行については別の方法を考えるしかないかもしれんな」
教官があごに手を当てる。だが名案がすぐに浮かぶわけでもなかった。
「そうそう、ついでに病院でトモちゃんの検査もしてもらったよー」
会長が話題を変えてきた。そういえば朋夏も気を失うという点では、湖景ちゃんと症状が似ている。会長が力のある僕でなく朋夏を同行させた理由が、そこでわかった。
「何か原因がわかりましたか?」
僕の問いかけに、会長は無情に首を横に振った。
「脳のCT検査をしたけど、特に異状はありませんって。予想はしていたけどね……お医者さんは精神的な理由だって言っている」
精神的な理由。朋夏には似合いそうにない。
「平山、何か心当たりはないのか」
サングラス越しの教官の視線が、僕に注がれた。
「いえ……何も」
やれやれ、という顔で教官が頭を振った。
「俺は宮前が体操部をやめた理由と関係があるのではないかと疑っている。そういうことを考えたことはないのか」
考えなくはない。だがそれを朋夏に聞き出すのが良いことなのか。それは僕が朋夏となまじ近しいだけに、もっとも慎重になる部分なのだ。
「平山。俺がお前に何を期待しているのか、わかっているのか? お前が理解してやれず、誰が宮前のことを理解してやれるのだ?」
「私は、それは聞かなくてもいいと思う」
そう言ったのは会長だ。
「あの裏表のないトモちゃんが、体操のことに関しては私たちに何も話さない。人の心には触れたくない部分があるんだよ。それを聞き出すのが問題の解決になるとは思えない。かえって問題をこじらせちゃうんじゃないかな」
「でも古賀さん。それなら大会はどうするの? 水面飛行ができないなら、優勝はあきらめるってこと?」
「そんなつもりはない。優勝はするよ」
平然と、だが会長は毅然として言い切る。
「僕も古賀会長の意見には同意しかねる。宮前君が悩んでいるなら、きちんと聞き出して解決の手助けをすべきじゃないのか」
花見の意見も、正論だ。だが会長は、ますます表情を固くした。
「トモちゃんがダメなら、ハナくんに替える。それで済むことじゃない」
「替えれば済むって、そんな!」
名香野先輩が急に立ち上がり、椅子ががたんと後ろに倒れた。
「古賀さん! 私はあなたを見損ないました。あなたはとても困った人だけど、仲間思いだという点については、私はあなたを信用していたのに」
「ヒナちゃん、節穴だったねー。航空部に勝つ、大会に優勝する。私はそのためだったら、何でもやってきたんだよ。気づかなかった?」
名香野先輩はぐっと息を呑んだ後、憤然とした表情で僕らをにらみつけ、食堂を出ていった。
「古賀会長。申し訳ありませんが、僕は学会がこのままで、パイロットの交代に同意するつもりは思いません」
花見も首を振って立ち上がり、僕らに一瞥もせず、先輩の後に続いた。
予想もしない、最悪の事態だ。大会まであと一歩のところで、大きな亀裂が入った。このまま航空部のように、空中分解してしまうのだろうか。
いったい、何がいけなかったのだろう。