4章 途切れた絆を 縒り直し(5)
6月14日(火) 風弱く 曇り
湖景ちゃんは一日休んだだけで、翌日には旧校舎で元気な姿を見せた。「ご心配をおかけしました」とぺこりと頭を下げられて、かえって恐縮した。
二人で作業を始めてほどなくして、尾翼につく舵の作業で行き詰まった。僕が教官に教えを請いに行ったら、「そのくらいは二人で解決しろ」と怒鳴られてしまった。何のための教官なのかと呆然としたが、はしごを外されたものは仕方がない。最初に「できるところまではやってみろ」と言っている以上、教官は僕たちの力を試そうとしているのかもしれない。
「二人で解決しないとダメらしい」と伝えると、湖景ちゃんの目がまた絶望で丸くなった。何せ相手は人を飛ばす飛行機だ。素人の二人では、委員長がやって見せたように穴をえいやっと広げたりする大胆な決断ができない。
それから湖景ちゃんは作業に詰まるたびに、機体の説明書だけでなく、航空工学の本や飛行機の解説書と首引きで格闘するようになった。だが結果として本や解説書では回答が見つからないことが多く、湖景ちゃんが「ごめんなさいごめんなさい」と謝るのがパターンになりつつあった。
あれこれ考えながらでも前進できるようになったのは、委員長が背中を押してくれたお陰だ。ただし作業の速度は、湖景ちゃんに言わせると、日曜日の午後以降はすっかり「かたつむりさん」になってしまった。真面目な湖景ちゃんの努力も認めてあげたいが、僕としては全体の作業スケジュールの方が気になってしまう。
教官が僕たちに任せる以上は致命的な問題は起きないはずだから、多少の不具合に目を瞑って割り切った判断も必要ではないだろうか。かといって必死に本を読み込む湖景ちゃんを椅子から引きはがして、作業に戻すわけにもいかない。
作業の途中で湖景ちゃんが本にはまり込んでしまったので、本人が納得したら呼んでもらうことにして、僕はいったん格納庫から出た。教官と朋夏がグラウンドにいたが、教官が航空工学の本を持っていたから、こちらは昨日の勉強の成果を確認していたらしい。朋夏は最初落ち込んでいたが、これから訓練に入るとわかると急に表情が生き生きとし始めていた。
教官のそばに行くと、朋夏の訓練スケジュールを渡された。スケジュール担当への配慮ということらしいが、きょうは持久走で明日は柔軟、と言われてもピンと来ない。とりあえず訓練内容を確認するふりをして……びびった。
「平山、どうだ、俺の組んだスペシャル特訓メニューは」
教官がにやりと笑った。スペシャルと言っても、書いてあることは一言。
「あの……このグラウンド三十周っていうのは何ですか?」
「ん? このくらいは楽勝でしょ」
準備運動をしながらメニューを覗きこんだ朋夏は、事もなげに言った。
「LMGのパイロットに持久力は本質的に必要な能力ではないが、宮前のモチベーションも考慮して設定した」
こちらも涼しげな顔をする。
「あたしも本格的な運動から離れてだいぶ立つし、調子を戻すには全身運動の基本のランニングが一番だからね。あとはダイエット効果で体重が減ればいいかなー」
「後半の動機が不純すぎないか?」
「平山、パイロットが体重を減らすのは別に不純ではない。なんなら一緒に走ったらどうだ? お前は少し体を作った方がいいと思うが」
宇宙科学会では体力仕事を担当しているが単に男手がないからであって、本来僕は体育系ではない。
「遠慮しときます。いつ機体の作業が再開するかわかりませんので」
朋夏はたっぷり十五分ほど体をほぐした。走る直前に湖景ちゃんの様子を見に行ったが、当分声がかかりそうにないので、僕はストップウォッチを持ってタイムの計測係をすることにした。
朋夏は恐らく僕が一生懸命走っても半周もついていけない速度で、黙々とグラウンドを回った。刻んだラップを紙に記録していくのだが、これが毎周、五秒と変わらない。表情をほとんど変えず、ただ僕の前を通過するたびに規則正しい息遣いが聞こえてくるだけだ。
十五から二十周で少しペースが落ちたが、その後は再びペースを回復した。昔から体を動かすことが好きな朋夏が、この一年はよくも宇宙科学会などという温い活動をしていたものだと思う。
そういえば、朋夏はなぜ体操をやめたのだろうか。
「限界を感じた」とは言っていたが、別に五輪レベルでなくても、国体で優秀な成績を上げるくらいはできたはずだ。それで体育系の大学に行って、将来は体育の指導者なんて道もあったはずなのに。高校女子でこの身体能力は宝の持ち腐れじゃないのか。
そんな僕を尻目に、朋夏は快調に走り続けた。二十五週目からまたペースが落ち始めたが、スパートをかけてきた三十週目は、一周目とさほどかわらない数字でフィニッシュした。
「どうだった?」
朋夏に聞かれたが、グラウンドの一周がどれくらいか知らないので、ラップやタイムは僕には判断できない。ただ、相当速い気がする。
「うーん、まだまだだなー」
タイムとラップを見た朋夏は、むしろ不満そうだ。それより驚くのは、ゴール直後には切れていた呼吸が、早くも元に戻りつつあることだ。
「タイムは悪くないんだけど、途中からアップしたつもりだったんだよ。それが上がっていないというのは、体が動いていない証拠だね」
「うーむ、そういうものなのか」
「宮前、なかなかいい走りだった。きょうは上がっていいぞ」
教官が、笑顔で声をかけてきた。
「ありがとうございます、教官! でもまだまだです!」
「それにしても、そんなに運動が好きだったら、体操を続けていればよかったじゃないか」
朋夏が振り向いた。表情から今までの笑顔が消えている。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
「むー」
一唸りすると、こちらに背を向けて「シャワーを浴びてくる」と言い残して、すたすたと歩き去ってしまった。
「飛行機の知識はまだまだだ……しかし、宮前には体力以上に競技者としての素質がある」
いつのまにか隣に教官が立っていた。
「そんなに速かったんですか?」
「速いか遅いかはこの際、問題ではない。最初に言った通り、LMGは持久走ではないからな」
では、何がすごいというのか。
「どんな素質のある競技者も、慢心していては本当の高みには到達できない。俺はアドバイスはできるが、最後は自己管理の世界だ。宮前は俺が何も言わずとも、けがをしないように十分な準備運動を行い、体調を上げるためのペース配分を考えた」
確かにコーチがランニングのメニューを設定すれば、限界まで走りこんで好タイムを出そうとするのが人間の心理だろう。
「宮前は俺が何も言わずとも、この持久走の意味がわかっている。タイムなどより、そうした姿勢と理解力こそがパイロットに必要な素質だ」
よくわからない。なぜそれが飛行機の操縦と関係するのか。
「わからんか? パイロットはいったん空に上がれば、自己判断と決断がすべてだ。いちいち意味を教えてやらないと訓練ができないような人間に、パイロットは務まらん……それはパイロットを支える地上スタッフも同じことだな」
少しひやりとした。それはつまり僕たちのことだろう。
「平山、スポーツとは本来、過程がすべてだ。結果などは所詮、副産物に過ぎん。宮前は勉強は苦手のようだが、本当は頭がいい。航空工学も操縦の要諦も最終的には理解する力があると、俺は踏んでいる。運動でもパイロットでも、いい素材だ……慢心せずに伸びれば、の話だが」
この威圧感のある教官に、そこまで言わせるとはすごい。朋夏に教えてやりたいが、最後の言葉は、僕に「話すな」と釘を刺したのだろう。
「……それにしても、平山」
教官が、僕に向き直った。
「お前にはまず空気を読むことを教えてやろうか?」
「……は?」
教官は、口元だけで笑顔を作ると、夕陽で橙色に染まった格納庫に向かって歩いていった。
代わってふらりとグラウンドに姿を現したのは、会長だ。もうすぐ撤収する時間だというのに、今の今までこの人はどこに行っていたのか。
「格納庫でコカゲちゃんの手伝いをしていたんだよー」
「それはどうも……少しは進みました?」
「ううん、コカゲちゃん、ずっと本読んでいたから。全然進まなかったよー」
朋夏の練習につきあってすっかり忘れていた僕も悪いが、まったく進んでいないというのも驚いた。都合二時間近く、本に浸っていたわけか。しかし会長もそれをいいことに、作業もせずに隣でゲームでもしていたんですね、きっと。
「この調子だと、コカゲちゃんは飛行機ができるまでにおばあちゃんになっちゃうかもしれないねー」
「会長、笑い事ではありません。さすがにここまでペースが遅いと……正直、とても間に合わないと思います」
「教官に相談した?」
「しました。でも二人で何とかしろとしか言ってくれません」
「ふーん」
会長は軽く笑みをたたえて、唇に人さし指をあてて考えていた。
「あのね、ソラくん。今のままでいいよ」
「え? でも作業スケジュールが……」
「それはソラくんが、がんばればいいことだよー」
またしても、あまりにもいい加減な回答に絶句していたら、
「ソラくんにしては、きょうはカンが悪いなー」
と、会長にため息をつかれてしまった。
「コカゲちゃんが、そうやって一つ一つの部品の役割や航空工学上の意味を頭に入れていくことが、遠回りに見えても今後の作業に決して無駄にはならないんじゃないかな? ソラくんは、コカゲちゃんを信用して、温かく見守ってあげることがお仕事なんだよー」
なるほど、会長の考えにも一理ある。ただし、機体の作業は事実上ストップしてしまい、この日は尾翼の部品を三つ組み立てただけで予定の半分も進まなかった。
しかもそのうちの一つは撤収間際の教官チェックで、初めてのダメ出しとなった。明日はきょうの作業をやり直さないといけない。僕と湖景ちゃんはげんなりしながら、格納庫の部品を見つめるしかなかった。