9章 想いは一つの 羽となり(3)
コンビニでお茶を人数分購入し、国道沿いの歩道を歩いていると、夕暮れの砂浜を黙々とランニングをしている朋夏の姿が見えた。きょうは朝からシミュレーター、午後が滑空場と、大忙しだったはずだが、日が落ちそうになるこの時間まで、一人でトレーニングを続けている。
「よう」
僕に気づいて駆け寄ってきた朋夏に、ペットボトルを放り投げてやった。
「シミュレーター、どうだった?」
「うん、意外に感覚はつかめたよ。湖景ちゃん、すごいよね。飛行姿勢や速度もちゃんと画面に出ていたし、操縦桿やペダルの加減をつかむだけなら、あれでも十分の性能だよ」
朋夏はペットボトルのキャップを開けると、一気に半分近くを飲んでみせた。朋夏と湖景ちゃんの作業が順調なのは、不幸中の幸いだ。
「それにしても、こんな時間までがんばってるな。夏休み初日からそんなに張り切っちゃうと、本大会まで体が持たないぞ」
オーバーワークくらい自分でコントロールしているよ、という反論を期待していたのだが、少し違った。
「そうなんだけどさ……でも体を動かしていないと、なんか不安で」
朋夏が勉強以外で不安という言葉を口に出すのは、珍しい。体操をしている時は、大会前もいつも自信たっぷりで、楽しそうだった。
「やっぱりフライ・バイ・ラジオ・システムを機体で訓練してから本番に臨みたいんだけど。そうもいかないみたいだからね」
体操はチーム戦はあっても、演技は自分との戦いだ。だが機体なしに、パイロットにできることは何もない。
「じっとしているともやもやがたまっていっちゃうから、こうしてガス抜きをしているの」
「無理して体を壊したら元も子もないんだから、ほどほどにしておけよ」
「うん。そうだね……ところで、名香野先輩の方、どう?」
僕は首を横に振った。
「悪い。もうちょっと待ってくれ。明日の昼までには、なんとかするから」
「ん。そっか、わかった」
「待たせちゃって、悪いな」
「ううん、気にしないから。機体の軽量化って、大変なんだよね」
朋夏は、笑顔を浮かべた。
「あたし、空太たちのこと、信頼している。試験の時、みんながあたしを信頼してくれたから。きっと名香野先輩の気持ちって、あの時のあたしと近いんじゃないかな」
連帯責任で、焦っているということか。確かに、あの時僕たちを救ってくれたのが、名香野先輩たちだった。
「みんなが滑空場に来てくれて、ファミレスで勉強を見てくれたから、今のあたしがあるんだ……空太、今は名香野先輩の力になってあげて」
「わかった。きっとなんとかする」
本当は、どうなるかはわからない。その辺りの不安が、朋夏に伝わらないようにしよう。
「……そうだ、空太!」
会話が静まりそうになった時、朋夏が急に、声の調子を変えた。
「私、きれいかな」
「……へ?」
この汗まみれの筋肉女が一体、何を言い出すんだろうと思っていたら、朋夏は目の前でバレエダンサーのように、くるりと一回転した。ポニーテールの髪が鮮やかな円弧を描いたのは元体操選手らしい回転で、さすがに決まっていた。
「ああ、きれいだな……その髪だけど」
茶化した返事で、てっきり殴られるかと思っていたら、朋夏は「あはははは」と、笑っただけだった。
「ありがと。じゃ、あたしは上がるから」
朋夏は無理に、明るく振舞おうとしている。更衣室の方に歩く背中を見ていると、急に申し訳なさがこみ上げてきた。二回目のテストフライトは、悪くなかったはずだ。朋夏が口にした不安材料を作ってしまっているのは、他ならぬ僕たちだ。なんとかして機体の目処を立てないといけない。システムの変更に残された時間は、もう一日も残っていない。
「平山。例の問題はどうだ? 進展はあるのか?」
朋夏に代わって、僕に近づいてきたのは教官だ。
「それが……すみません、どうにも。名香野先輩が調整とテストを繰り返しているのですが、これといった原因が見当たらないようなので」
「ふむ」
サングラスの下で教官の表情は見えないが、重みのあるため息と共に腕を組んだ。
「あの……教官はモーターとバッテリーの開発者、なんですよね。でしたら、何かヒントだけでも、いただけませんか?」
教官は、問題の所在に気づいているはずだ。だが、返事はつれなかった。
「前にも言ったろう。俺には、大会を公平に進める責務がある。無論、技術的な指導はできるが、今回のシステムはお前達自身が選んだ道だ」
「ですが……」
「名香野のアイデアはいい。そして、そのシステムの成否は、恐らく航空部との勝敗を左右する重要なポイントにもなる」
そこで教官はサングラスを外し、僕の目をじっと見た。
「俺としては、大会に出場するのは宇宙科学会でも航空部でも構わない。古賀のことも考えないではないが、新型飛行機の可能性を引き出すチームを出場させることが、今の俺にとっては最優先だ。航空部も今、必死になって知恵を絞り、工夫している。宇宙科学会が新システムを実現できず、予選会にも敗れるのなら、大会に出場しても、大して期待はできんだろう」
ここまで僕たちと向き合ってきて、冷たい物言いにも思える。だが、それが大人の理屈なのだろう。社会に出れば勝敗はあっても、善戦はない。そういう考え方は、厳しい人生経験から培われるのかもしれない。
「だがここまで努力してきたチームを、名香野一人の都合で不戦敗となるような事態は、見過ごすことができない。チームの誰も名香野を止められないのなら、俺がチームの監督として、必要な判断を下す」
教官の言も一理あるが、機体の軽量化は、名香野先輩だけでなくチーム全体として取り組んだ問題だ。それがうまくいかないのであれば、失敗はチーム全体が受け入れるべきではないか。そう反論しようと思った刹那、ずっしりとした大きな掌が、僕の両肩をたたいた。
「何か言いたそうだな。だが平山は、なすべきことがあるのではないか?」
会長と同じ話だ。なぜみんな、僕ばかりにそんなに頼る……そう思った瞬間、ふっと頭にひらめくことがあった。
そうだ。僕が本当に、名香野先輩に対する非情な通告をさせたくないと思うのなら、抗議する相手は教官ではない。タイムリミットまでに、僕はできるすべてのことをすべきだ。そして僕にできることが一つ、ある。
「……教官に、そんな決断はさせません。僕たちの力で問題を解決し、駄目なら僕たちが決断します」
それを聞いて、教官の表情が緩んだ。
「平山。たった一月半だが、お前はたくましくなったな。昔、俺がお前に言った怠惰という言葉は、撤回させてもらう」
期待している、と言い残して、教官は去っていった。僕はすぐに、携帯電話を取り出し、短いメールを打った。
「相談あり。至急連絡を請う」
格納庫の中を覗くと、名香野先輩が昼間と同じ格好で、作業をしていた。結局、ロクな休憩も取っていないようだ。きょうは格納庫内の湿度が高く、額に流れる汗をぬぐいながら、機体をにらみつけている。ミニコンを覗き込んで、機体に調整を加えて、またミニコンを覗き込む。その繰り返しだ。
湖景ちゃんはプログラム調整をしている。視線は姉さんのことを気にしているが、もう近づきもしない。何とかしたい。それなのに、僕が今できることは、湖景ちゃん同様、先輩を見守ることだけだ。せめて全力を尽くしてほしい。僕は「がんばって」と、心の中で声をかけた。