13章 重ねた努力に 裏切られ(5)
この日の夕食メニューは、ビーフストロガノフだった。
「姉さんのお陰で、料理ができました」
湖景ちゃんはうれしそうだ。憧れのお姉さんと、初めて作った料理。食卓に並んだ各自の皿に、食欲をそそる褐色のシチューが盛られている。
「うわーっ、おいしそう!」
最初に歓声を上げたのは、もちろん朋夏だ。
「煮込み加減もよさそうだねー」
会長も感心しきりだ。その様子を見て、名香野先輩が胸を張った。
「二人の自信作です。最後の炒めと煮込みは、湖景がほとんど自分でやったのよ。お陰で私は湖景に任せて、飛行機の作業に入ることもできました」
「はい、姉さんの指導は完璧でした!」
湖景ちゃんも負けじと胸を張る。姉さんのことになると、信頼が揺るがないのが湖景ちゃんだ。
「じゃ、冷めないうちに食べるとしようよー」
「いただきまーす」
僕たちはいっせいに、ビーフストロガノフを乗せたスプーンを舌へと運んだ。そして、完全に停止した。
なぜビーフストロガノフに中華の……例えて言えば、ギョーザの味がするのだろうか。
いや、これはギョーザではない。同時に、牛肉とにんじんとブロッコリーが入ったクリーム煮だ。しかし、なぜそこにデミグラスソースと思しき物体がトマトの酸味を主張しつつ、胃袋にずしりとくる重みがあるのか。
みんな一斉にコップを手に取った。そこに水が入っていないことに気づき、最も早くウォーターピッチャーを奪い取った朋夏が、あわただしく水をコップに注いで一気に飲み干す。これに全員が続いた。
「あの……みなさん、いかがですか?」
湖景ちゃんが期待半分、不安半分の瞳で僕たちを見つめている。この純真な天使の罪のない努力を破壊するような真似が、誰にできるだろうか。
「あの……湖景?」
「はい、姉さん!」
「参考に聞きたいんだけど……具材を炒める時に、何か使った?」
「え?……あの、バターを使ったんですけど」
ウソだ。バターだけで、こんな味になるはずがない。
「ただバターだけだと焦げ付きそうになったので……油を足しました」
「油……」
名香野先輩がぱたぱたとスリッパを鳴らして、厨房に駆け寄る。そして手に取った油の瓶は、半分ほどがなくなっていた。
「ごま油……」
そういえば、朋夏が麻婆豆腐の料理にごま油を使っていたっけ。
「香辛料も大事と聞いたので麻婆豆腐の余りのニンニクとホワジャンとパクチーも全投入して、さらにですね……」
天真爛漫な白無垢の笑顔で、湖景ちゃんが説明を続ける。
「それと隠し味に、私が大好きなマヨネーズを一本!」
隠し味。確かに隠れていた。だがそれは味のカオスが先に舌先に殺到して不協和音を奏で、たまたま隠れていたに過ぎない。そもそもボトル一本の味付けを「隠し味」と定義できるのか。いや、この隠れ方はラスボスじゃないのか。
朋夏の椅子が、がたんと大きな音を立てた。そして立ち上がると、あの大食漢が、残した大皿に一瞥もくれないまま、食堂を後にした。遠ざかる背中が、語らずとも泣いているのがわかった。
「あれ……会長さんはどちらに?」
ふと会長の椅子を見ると、いつのまにか主の姿が消えている。この局面で身を守る最善の手段を、会長は理解していた。しかも抜け目がない。
「あー、津屋崎。俺は急に部屋で酒を飲みたい気分になった。悪いがこれで失礼する」
続いて席を立ったのは、サングラスで目線を消している教官だ。
「あ、教官。ちょっと飛行機の質問があるので僕も同行します」
教官の背中を支えるように花見が付き添う。くそー、裏切り者め。
「教官さん、それでしたら残りのビーフストロガノフを部屋にお届けしますね!」
「いや津屋崎、きょうの酒の肴はスルメとエイヒレの気分なのだ。こういう若者向けのメニューは、お前らが存分に食うといい」
丁重だが、きっぱりとした口調だった。そして、まるで命にかかわるかのようなさりげない必死さが漲っていた。
「教官さんも花見先輩も真面目なんですね……あ、姉さん、平山先輩。おかわりもたっぷりありますから、山盛りでどんどん食べてくださいね」
「おかわり……山盛り……」
子供の頃、おかわりや山盛りという言葉は、素晴らしい言葉だと信じていた。それを根底から否定される日が来ようとは、予想もしていなかった。
そして事態は深刻だった。完全に逃げ遅れた。
僕と名香野先輩はまずアイコンタクトをした。ここまできたら席を離れることは許されない。ここで逃げたら、いくら鈍感な湖景ちゃんでも異変に気づくだろう。そうなれば、合宿で自信をつけてもらおうとした僕たちの努力が灰燼に帰する。
「わかっているわね、平山君」
名香野先輩の小さい声が、どす黒い瘴気を帯びていた。
「もちろんです。先輩」
死なばもろともだ。もう覚悟を決めるしかない。
「いくわよ」
名香野先輩は決死の目線で、しかしその決意を微塵も湖景ちゃんの前には見せず、目の前にあるビーフストロガノフになり損ねた物体にスプーンを突き刺した。そして一気にほお張り、僕もそれにならった。
一気に食えば一気に減る。その理屈は、物理的には正しい。しかしその瞬間、ビーフストロガノフ本来の味をごま油が完膚なきまで破壊し、口腔内でロシアの大地と中国四千年の全面戦争にマヨネーズが乱入する強烈なフレーバーに、どう耐えろというのだろう。
「姉さん……涙が出るほどおいしいんですか? 姉さんの言う通り、料理って工夫の一手間なんですね。最後にお肉の臭み消しに入れた青野菜ひと束が決め手でした……あ、これニラだったんですね!」
「そ、そうね……」
もはや言葉が必要な世界は超越していた。なるほどギョーザ味か。名香野先輩が虚ろな瞳で見つめる先は、たゆたう黒竜江に浮かぶトマトとニラの姿に相違ない。
「平山先輩、どうですか?」
キラキラ瞳で話しかける無邪気な笑顔を、どうして無下にできようか。
「湖景ちゃん……なんだかとってもクリーミーだね」
「あ、気づきました? トマトの酸味が気になる時は生クリームを足せばいいって本に書いてありましたから!」
湖景ちゃんが戦勝記念のごとく掲げたのは、完全に空になった生クリームの一リットルパックだ。舌の全局面に幅を利かすギョーザ味の中に混じる、胸が悪くなるようなモッタリ感の正体が知れた。
ニコニコしていた湖景ちゃんの表情が、不意に曇った。
「あの……もしかして、ダメでしたか? 私、結構おいしかったんですけど」
フォローしたい。その気持ちだけは、神に誓って本物である。
しかし、これを「おいしい」と言われては継ぐ言葉もない。舌音痴って本当にいたんだ……感心するより食べるのが先とわかってはいたが、僕も名香野先輩も完全に死の淵をさまよっている。僕らは顔を見合わせ、そしてうなずいた。
「参りました。勘弁してください」
人間は、会長のような神に祝福された存在を除けば、一芸に秀でた分だけ一芸を失うものなのだろう。
悪夢のような晩餐会が終わり、僕らは食堂に再集合した。すぐに夜の作業を始めるには、若い僕らの胃袋が満足しなかったからだ。栄養だけは満点の食事をした僕と名香野先輩は本来別なのだが、この口腔内の嵐をかき消さない限り、きょうという日が終わりそうにない。唯一、味に大満足だった湖景ちゃんを除く全員の前に、熱湯を注いだカップラーメンが並んだ。
「きょうは本当に、ごめんなさいです……」
湖景ちゃんの目に涙がたまりそうになって、名香野先輩は慌てた。
「そういう意味じゃないの! 私が最後まで教えていれば、こんなことに……」
「気にすることはないよー、湖景ちゃん。天才にも、得手不得手はあるって言うじゃない?」
会長にそう言われると、あなたの不得手は何なんだよって、思わずツッコミたくなる。
「でもヒナちゃんは料理が本当に上手だよねー」
「え?」
「きっといいお嫁さんになるよー」
「ちょっと古賀さん、変なこと言わないでください」
普通と同じ、と言いながら名香野先輩が顔を赤らめたが、花見も同意した。
「名香野先輩は万事、仕事の手際がいいです。料理も飛行機作りも、手抜かりや見落としがない」
「あ、あたしもそう思う! 名香野先輩はやっぱりすごい委員長だったんだなーって、改めて思いますよ」
「僕も、先輩は自分をもっと評価すべきだと思います」
「ほらヒナちゃん、みんなそう言ってるでしょ? 照れることはないよー」
そう言いつつ、本当はみんな名香野先輩が熟柿のように照れるのを面白がっている。わかりやすく顔を赤くするから、会長の餌食になる悪魔のスパイラル構造なのだが、先輩は気づいていない。つくづく人を疑うことを知らない、正直な人なのだ。
「そんな、私ばっかり……湖景だって、すごいのよ。ねえ、湖景」
困った名香野先輩がそう振ったにもかかわらず、湖景ちゃんはそれには答えず、ぼんやりと名香野先輩の顔を見つめていた。
「ずっと黙り込んだままで、具合でも悪いの?」
「あ、いえ、姉さんの顔を見ていて……あと二年もすれば、私もそんな風になれるのかな、と」
それだけ言うと、恥ずかしそうにうつむいてしまう。だが湖景ちゃんも、本当は名香野先輩と同じ年なのだ。
「私、あしたが誕生日なんですけど、姉さんみたいに頼りがいのあるしっかりした人になれてないなって……」
そうか、湖景ちゃんの誕生日は明日か。すると、名香野先輩も……
「明日? え、ちょっと待って。私は今月の十五日生まれよ?」
そんな馬鹿な。二週間以上誕生日の違う双子が、いるわけがない。
「あ……でも、誕生日っておめでたいことだよね! じゃあさ、今からでもケーキ買って、パーティーしようよ!」
ああ朋夏、君はこの場の最も大事な論点が、まったく読めていない。
名香野先輩が、軽いため息をついた。
「きっとお母さんが、わざとその日を教えたのね。だって、明日はお父さんとお母さんの結婚記念日だもの」
湖景ちゃんがいつになく、寂しそうな顔をした。
「いいじゃない、そんなの気にしなくて」
そう場をとりなしたのは、朋夏だった。
「誕生日なんて、本人が生まれた時を覚えているわけじゃないんだから。家族が一年に一回、その人の誕生と成長を本気で祝ってくれる日だって思えば、別にいつだっていいんじゃないの?」
湖景ちゃんの場合は事情が事情のはずだが、朋夏の話はがさつに聞こえて、説得力があった。
「湖景ちゃんのお母さんは毎年、湖景ちゃんの誕生日を祝ってくれたんじゃない?」
「え?……あ、はい。毎年、大きなケーキを買ってくれまして」
「誕生日がいつになったって、湖景ちゃんの成長をすごく喜んでいる気持ちは、たぶん変わらないんだよ」
「あ……」
湖景ちゃんが、何かに気づいたような顔をした。明日をも知れない病気を患っていた湖景ちゃんが成長することを誰よりも喜んだのは、湖景ちゃんのお母さんのはずなのだ。
「だから、おめでとうぐらいは言わせてよ! 湖景ちゃん、明日の誕生日、おめでとう!」
「あ……ありがとうございます」
朋夏の明るい声に、湖景ちゃんが照れたような笑顔を浮かべた。