10章 大地を離れて 天翔ける(4)
航空部は、宇宙科学会の後で審判のチェックが入る機体の確認に、余念がない。部員数人が、機体の周りで作業をしている。指示を出しているのは副部長だ。花見は少し離れたところで腕を組んだまま、じっとその作業を見ていた。
「どうだい、調子は」
後ろから声をかけると、花見が肩越しに振り返った。
「うん、いいコンディションで迎えられそうだ。君たちは?」
「最後の最後に、いろいろあってね。昨日は徹夜だったよ」
「お互い、やるべきことはやったようだね。きっと、いい戦いになるよ」
花見はまた楽しそうな顔をした。
「もうわかっていると思うが、機体の性能差を考えると今回は僕たちが不利なんだ。だが航空部の面子にかけて負けるわけにはいかない。この日まで何度もミーティングをして問題点を洗い出し、斬新な工夫を加えた……その辺は予選会が終わったら君たちにも紹介できると思う」
花見は自信満々だ。負ける気など、微塵もない。
「油槽タンクは外せたかい?」
「ああ。それも昨日の夜だったけどね」
「君たちの工夫を見ることも、楽しみにしている。ところで平山君、ものは相談なのだが……」
花見がこちらに向き直った。
「予選会が終わったら……君たち全員を航空部に招けないかな」
「え?」
唐突な申し出だったが、花見はずいぶん前から考えていたようだった。
「この前のテストフライトを見て、君たちチームがそれぞれ飛行機に対する素晴らしい才能と情熱を持っているように感じた。君たちのような新しい血が入ることは、航空部にとって次の前進になる予感がするんだ」
花見は本当に屈託がない。航空部にとって良かれと思うことなら、敵味方も関係がない男だった。
「せっかくだけど、その話は……」
「ああ、この前は少し気分を悪くしたかもしれないけど、みんな悪い人間じゃないんだ。ここまでやった君たちを歓迎することは、間違いないよ。それに何より、僕も君たちと一緒に新しい挑戦がしたい」
「いや、そうじゃなくて……その話は予選会が終わってからじゃないのか?」
花見が一瞬戸惑った顔をして、それから笑った。
「そうだった。まだ予選会が終わってなかった」
お互いに右の拳を出し、突きあった。今は敵味方、これ以上の詮索は無用だろう。
「いい天気になってよかったな」
空を見上げた。きょうの空も、抜けるような夏の青一色だ。風も適度に吹いている。絶好の飛行日和だ。
「まずいな……」
花見が呟いた。やや浮かない顔をしている。
「何か問題でも?」
「東風だ」
言われてみれば、内浜で東葛方向から吹く風は珍しい。
「それも朝から変わらない。もうそろそろ西風になると思ったのに」
「風はそれほど強くないと思うけど?」
「内浜はね、南風は緩くて穏やか、西風は一般に強い。北からの風は天候が崩れる場合が多いんだ」
さすがに花見はここの気象には詳しい。
「でも一番難しいのは、あんな巻雲が出ている時の東風だ。上空は西風なんだが、気象条件と地形の影響で地表近くで風が巻いている。風向きが急に変わったり、無風と思っていたら急に突風が吹くことがある。年に何回かなんだが、飛行に慣れていてもここでは厄介な風なんだ」
花見が僕を見つめた。
「宮前君には十分に気をつけるように伝えたほうがいい。飛行中は絶対に集中を切らさないことだ」
「あ、平山さんと花見部長。ちょっと握手してくれませんか?」
突然声をかけてきたのは、カメラを手にした報道委員会の水面ちゃんだ。夏休みでも仕事熱心は感心だが、僕は宇宙科学会の会長ではない。だから遠慮願おう……と言おうと思ったが、花見に先に手を握られてしまったので、なぜかファインダーの前で作り笑いをするしかなくなった。
「はい、ありがとうございます! では決戦を前に抱負を一言、聞かせてください」
先に答えたのは花見だ。
「いい飛行機ができた。訓練も万全だ。だから航空部は絶対に負けない」
「僕たちも同じだ。宇宙科学会は人数は少ないし挑戦者ではあるけど、負けるつもりはない」
僕は花見に礼を言った上で健闘を約束し、別れた。そう言えば、うちのパイロットはどうしているのだろう。
丸刈りの頭が、朋夏の所在を教えてくれる。格納庫の横の滑走路にあぐらをかいて座り、何やら瞑想をする様子は、失礼ながら修行僧のようだ。
「ふっふっふー」
僕と目を合わせると、朋夏はやけに胸を張った。
「ずいぶんと自信がありそうだな、朋夏」
「やるべきことをすべてやったなら、後悔することなんて何もないんだよ」
「それが言いたかったんだな」
しかし、相手は何と言っても天才・花見だ。
「調子に乗ってるな」
「違うよ」
朋夏が座ったまま、真剣な顔つきに戻る。
「もちろんこれまでのフライトやトレーニングの結果も自信の源にはあるけど、それだけじゃない」
「そうなのか?」
朋夏がゆっくりと、言葉をつないだ。
「名香野先輩や湖景ちゃんが作ってくれた機体とか、空太が一生懸命がんばってくれたこととかが、うれしいから。だから、自信があるの。信じればきっと奇跡は起きるんだ」
熱血少年漫画とかにある、みんなの力で奇跡を起こすって奴か。がんばればすべからく勝てるような社会なら、世の中の苦労は半減するだろう。
「信じてないの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「信じていいよ。だって、もう奇跡は起きているじゃない」
「え?」
朋夏が天空を見上げた。きょうも太陽の光がまばゆい。
「あたしたちは白鳥を完成させた。名香野先輩も湖景ちゃんも、がんばってさ。一か月前も昨日の今ごろも、信じていなかったんだよ」
名香野先輩の作業が完成するか、僕は昨日になっても確信していなかった。というより会長が逆転技を明らかにする昨日の夕方まで、僕たちはこの飛行機を飛ばせるとは、本気で思っていなかったのだ。
「みんな、がんばったのは事実だな」
「だから、あたしだけが失敗できないんだよ、空太」
会長がキットを用意し、名香野先輩と僕が組み立て、湖景ちゃんがソフトを整備し、教官が指導する。最後にバトンが渡るのが朋夏だ。だから背負うプレッシャーも一番大きい。それをはねのけ自信を保っていられるのは、朋夏の強い精神力の賜物だ。
「あたしに経験が少ないのは、わかっている。でも、それは全力を出せない理由にはならない」
「そうだな。朋夏にだったら、すべてを任せられる」
率直な気持ちだ。朋夏は大会のプレッシャーに負けたり、直前に自信を喪失したりしない。今までずっとそうだった。
「辛い役どころだな。申し訳ないが、こればかりは朋夏にしかできない」
宇宙科学会には、優秀な人材がそろっている。しかし朋夏の代わりだけは、誰も果たすことができない。そして他のすべての作業と異なり、機体の操縦だけは誰とも共有できない。朋夏一人で戦うしかないのだ。
「いいよ、気にしていない。それに仕事なら共有している。この翼を作ったのが、みんなだから」
「朋夏なら、きっと成功するよ」
プレッシャーになりそうな言葉も、朋夏に限っては信頼が自信の源になる。朋夏は昔から、そういう奴なのだ。
「ありがと。あたし、本気出すから」
朋夏の雰囲気が変わった。いや、どこが変わったのか、はっきりわからない。だが確かに今、変わった。これが「スイッチが入る」というものなのか。
「仲間の期待を受けて本気を出せないのは、あたしじゃない」
笑顔だ。だが眼光が違う。こっちを見ているようで、見ていない。遠くの獲物を見つめているようだ。これが、朋夏なのか。
僕たちは、だらだらとした遊べる場所だった宇宙科学会を存続させるために、ここまでがんばってきた。あまりに毎日が充実していて、それ以前の宇宙科学会の日々を、懐かしむ意識さえ起きない。このやりがいのあるチャレンジに、全員が一丸となった。きのうまで僕たちに立ちはだかった大きな壁も、最後の最後に乗り越えた。
昨日の議論の時、僕たちは時間の制限を忘れていた。時間切れを理由にあきらめてしまえば、あんな議論はする必要がなかった。ただ苦しんでいる名香野先輩を助けるため、全員で知恵を絞った。僕たちは、きょう戦えるかどうかも、本当はどうでもよくなっていた。
そして機体は整った。全力でやった、これだけは自信を持って言える。それは、僕がずっと失っていた誇りだった。本当はもう、勝とうが勝つまいが、どうでもいい……だが、口をついて出た言葉は違った。
「花見が、風が気になると言っていた。風向きが変わりやすい天候らしい。飛行中は集中して、絶対に操縦桿を離すな、と」
「わかった。花見君のアドバイスなら、信じられるね」
「航空部に勝とう、朋夏。そして本大会へ行こう。僕たちの、次の未来に」
「了解」
朋夏がウインクした。その時、両軍の機体のチェックを終えた審判団が、集合をかけた。いよいよ、決戦が始まる。