10章 大地を離れて 天翔ける(1)
7月23日(土) 東の風 風力2 晴れ
旧校舎のグラウンドの東の水平線から、朝日が昇る。早朝の海風は、心地よい湿度と涼しさを運んでいた。あと数時間であの太陽が、焼き消してしまうに違いないが。
「朝……だね」
隣に立ったのは、名香野先輩だ。湖景ちゃんと会長は、格納庫の隅で丸くなって、寝息を立てている。二人はきのう、夜に東京まで行って午前零時過ぎに旧校舎にトンボ帰りする、強行軍だった。
姉妹が引いた図面通りに、光ケーブルと機械を装着した。重量バランスを調整した上で、配線ミスや予期しないノイズがないか、何度もテストした。モーターの出力を変えながら同じ操作を十回以上繰り返し、一度の不具合もなく、教官のOKが出たのは午前四時過ぎだった。体の弱い湖景ちゃんは先に休ませていたが、会長も作業が終わると同時に、沈むように倒れてしまった。
僕と名香野先輩は、二人が買い出しに行っている間に仮眠を取っていたので、なんとか余裕がある。それでも睡眠時間は一時間に満たない。
「きれいな飛行機、ね」
「ええ。白鳥、の名に恥じない機体だと思います」
格納庫の外に引き出した朝日に輝く白鳥は、掛け値なしに美しかった。きょう僕たちは、この翼を使って、航空部との決戦に挑む。
「そういえば私たち、何でこんなことになったんだっけ?」
「さあ……そんなこと、もうどうでもいいじゃないですか」
僕と名香野先輩は顔を見合わせて、思わず吹いてしまった。
目標は、宇宙科学会の存続。そして名香野先輩は宇宙科学会を廃止の瀬戸際に追い込み、きょうの予選会を提案した張本人なのだ。自分で自分の首を絞めていたわけで、運命の巡り合わせは皮肉としか言いようがない。
「私ね……宇宙科学会の活動に参加して、本当によかったと思っている」
名香野先輩が呟いた。寝不足のはずなのに、きのうまでの苦悩の色は、微塵もない。きょうの朝日のように、清々しい表情だ。
「宇宙科学会に来なければ、私の高校三年間は、委員会活動しかなかった。それはそれで充実していたし、あんな目に遇わずに済んだのかもしれない……でもね、それだと私はいつか、昨日と同じ失敗をしたと思うの。その時は、もっと取り返しのつかない大失敗……ほら、平山君が言った登山隊の話。みんなをあんな状態に追い込んじゃったかもしれないんだ」
仲間に助けられる間に限界を知ってよかった、と名香野先輩は言った。
「限界なんて早すぎますよ。先輩はここ二日間、少しつまずいただけです。まだまだ成長できます。僕なんかと違って」
「でも途中で休むこと、誰かの助けを借りることは、覚えなければいけなかったのよ。なんかやってみたら、意固地になっていた昨日までの私が、急に子供みたいに思えてきた」
名香野先輩は笑った。あのクーデター騒ぎ以降、一度も見なかった笑顔が美しかった。
人はたった一晩でも、成長できる。先輩は将来、きっと僕の手の届かないくらい大きな人になるのだろう。そうなれば高校時代に一瞬、傍を通った僕のことなど思い出さなくなるに違いない。
「平山君、あなたはどうなの? これまで何もしていなかった人には、見えないんだけど」
急に自分のことを質問されて、僕は答えられなかった。情けないことに、僕は自分が仲間と言い続けた相手に、自分の過去を話す心の準備がなかった。
朋夏も湖景ちゃんも名香野先輩も、成長している。僕は一人だけ、何も変わっていないのではないか。
「いいわ。いずれ話してね。いつかこの恩返しができれば、うれしい」
委員長が、うーんと言って背伸びをした。さすがに眠気が堪えるらしい。
「あと、もうひと踏ん張りね。時間になったらトラックに積めるよう、二人で主翼を外しておきましょう。古賀さんと湖景を起こさないようにして」
「はい」
僕たちはうなずきあって、格納庫に向かった。