15章 折れた翼が 痛んでも(8)
目を覚ました時、涙が頬を伝って流れていた。
僕は暗い部屋のベッドに横になっていて、机の上に蛍光灯の明かりがひとつ。その光をさえぎるように、僕の顔を心配そうに覗き込む人影があった。その姿はいつか、夏に近い旧校舎のグラウンドで見た影に似ていた。
「朋……夏?」
「空太。気づいた? よく、眠っていたよ」
朋夏が優しく微笑みながら、僕の涙をハンカチでぬぐってくれた。
上体を起こす。少し頭痛とめまいがする。気分がよくない。自分が飛行機を作っていたこと、合宿に来ていたこと、会長と話していて意識を失ったことを、おぼろげに思い出した。
「いま、何時?」
「日付が回ったところ。空太が倒れたって聞いて、みんなが駆けつけて。花見君とあたしで部屋に運び込んだんだ。湖景ちゃんが大泣きでね……それでも急にうなされたように暴れだすから、お医者さんが鎮静剤を打ったら落ち着いたみたい」
会長と話していたのは、一時を少し過ぎた時間だった。窓の外は今は真っ暗で、静かに虫の合唱が聞こえてくる。
「半日近く寝ていたのか……朋夏はいつから?」
「夜の訓練と作業が終わってからだから、一時間くらいかな。花見君は教官の部屋に移ってくれた」
上のベッドが空いている。部屋にいるのは朋夏だけだ。
「そうなのか……ありがとう」
朋夏がどういたしまして、と微笑んだ。とりあえず、立ち上がってみる。少しふらついたが、朋夏が支えてくれた。
「大丈夫?」
「うん……ちょっと、立ちくらみがしただけだ。もう大丈夫、顔を洗ってくる。朋夏ももう、部屋に戻って休め」
「うん……ねえ」
朋夏が少し、伏し目がちになる。
「何があったか、あたしは聞かない。誰でも自分の心に触れてほしくない部分はあるものね」
朋夏も、あの男の子のことは何も知らない。僕が特別奨励賞を取ったことを無邪気に祝福し、僕がすっかり落ち込んだことに気づいた後も何も尋ねず、いつもと変わらず、ただ僕に寄り添ってくれていた。
「だから……あたしは空太のこと、信じてるから」
朋夏は「教官が屋上で空太を待っている」と伝えて、部屋に戻って行った。
洗面所でゆっくりと顔を洗い、鏡を見る。ずっと寝ていたはずなのに、目の下に大きなクマができている。その瞬間、脳裏にフラッシュバックのように雪の東京の景色が甦り、僕は思わず首を振って、その光景を打ち払った。
部屋に戻ろうとして朋夏の言付けを思い出し、僕は暗い階段を上った。ひざに鉛が入ったように、重かった。
鉄の扉を開けると、満天の星影のシャワーが、僕を迎えてくれた。気だるい湿気を打ち払う、夜の冷気が扉から一気に吹き込んでくる。それが僕の胸腔を満たして、ようやく落ち着いた気分になった。
教官は果たして、屋上にいた。新聞紙の上にあぐらをかいて座り、その傍には缶ビールが数本と焼酎の瓶がある。
「平山、来たか……まあ、座れ」
教官の横に腰を下ろす。缶ビールを差し出されたが、断った。
「だめですよ、一応は部活動の顧問って肩書きなんでしょう?」
「固い男だ……だが、それは正解だ。大人になれば相手への好悪や上下とは関係なく、正論を貫く勇気は必要だからな」
代わりに教官が差し出したのは、レモンジュースの缶だった。焼酎を割っていたらしい。僕はのどが渇いていたから、ありがたくいただいた。
「星はいい。俺は子供のころ、よく星を見上げていた」
教官は、視線を空に向けた。天の川が手に届くほど近くに迫り、星が降るという言葉を実感する。
「神はこの世に、光の世界と闇の世界を平等に作った。そして光の世界に影を、闇の世界に星を残した。すべての生命を育む陽光の偉大さとは比べ物にならない小さな光だが、闇夜を照らすという点では、星影は陽光に勝るとも劣らない意義があるとは思わんか……」
よくわからない。だが理屈を抜きにして、確かに星空はいい。疲れた僕の心を、ゆっくりと癒してくれる。教官は昔話を続ける。
「俺は星空を見て誓った。いつか、この天空に近づいてみせる。そして星達のように、地上を照らしてみせる……俺は万物を照らす太陽にはなれんが、誰かが見上げて希望を感じる星にはなれるのではないか。そう思ってな」
「教官は、それで飛行機に乗ったのですか?」
焼酎のグラスを傾けながら、大人の横顔がうなずく。
教官が飛行機の勉強を始めたのは、高校からだそうだ。そして内浜学園大学に入り、航空工学を学びながら、当然のように航空部に入った。同期にも先輩にも、教官以上に空に憧れを持ち、情熱をもち、飛行機を自在に操れる人はいなかった。教官の夢の行く先と天から与えられた才能は、完全に一致していた。
「そんな幸運が訪れる人間は、そうはいないだろう。俺にとって飛行機はまさに翼だった。俺が生きるための翼だった」
大学四年生の時、ずっと構想を温めていた飛行機を作った。世界で自分しか作れない飛行機だ、と確信していた。お披露目となった地方予選で世界記録を出したのも、試験飛行の時点で、予想の範囲内だったという。大学に多くの航空関係者が訪れ、画期的な先尾翼機を絶賛した。
「俺は思い上がっていた。まるで飛行機の女神に祝福された、特別な存在であるかのように。だが神に近づこうとするイカロスの翼が溶けることは、古来変わることのない真理なのだ」
教官の声が、次第に重苦しさを帯びてくる。
ある日、目をかけていた後輩に、それまで誰にも触れさせなかったこの飛行機の操縦を託した。操縦性に難がある機体の能力を自在に発揮できたのは、開発者として飛行機の細部まで理解していてこそだった。教官は誰よりも、後輩にこの飛行機の素晴らしさを知って欲しかった……
「すべてを教えこんだつもりだったが、大事なことを教えていなかった。あれこれ考えるより、シンプルに飛ぶこと。飛行機の性能を引き出すなど本当は二の次なのだ。後輩はこいつで飛び……そして着陸に失敗した」
一陣の突風が吹き抜ける。枝がうなり声を上げ、虫の声が消える。だがしばらくすると、何事もなかったかのように、再び合唱を始めた。