14章 無窮の闇に 囚われて(3)
何度目の墜落だろうか。急降下まではいいが、機首上げのタイミングが合わない。遅過ぎれば海面に激突し、早過ぎれば記録は伸びない。
午前中の実機飛行は無難にこなした朋夏だったが、午後に格納庫に戻ってシミュレーションを始めると、操縦は進歩するどころか後退していた。
朋夏は勝つためにギリギリを攻める。安全策では先尾翼という特殊な機体のデメリットが大きくなる。理屈ではわかっている。でも僕や名香野先輩、湖景ちゃんには、「そこまで無理をしなくても」という意識がある。
「宮前先輩、落ち着いてトライしましょう」
午後から作業に合流した湖景ちゃんが、マイクでそう呼びかける。湖景ちゃんの体調も心配したが、僕たちが格納庫を出た後に起き出して、シミュレーターの調整を続けていたという。
「宮前先輩の不調の原因がCG酔いじゃないかと思いまして。遠くの背景をぼかすなどの対策を施しました」と話す様子は顔色も悪くなく、いつも以上のやる気で訓練に臨んでいるように見えた。会長と教官は機体を運んだトラックの返却で不在だった。
「努力と、根性ーっ!」
スピーカーから、蛮声が響く。努力と根性と声の大きさが成功を保証しないことは、過去のトライアンドエラーで実証済みだが、そう割り切るのも難しいのが朋夏だ。海面激突の警告音が聞こえないのは成功したからではなく、あまりに頻繁に鳴り響くので湖景ちゃんが警報音システムを切ってしまったからだ。
「まだまだっ!」
朋夏の辞書に、「あきらめる」の文字はない。というより失敗すればするほど、燃え上がっていくように見える。
疲れるぞ、そういう生き方。
そんな思いが頭の片隅に浮かぶ。いや、以前の自分ならずっと前にそう思っていたはずだ。しかし今はそれ以上に、衰えることのない熱量を保ち続ける朋夏の行動力をうらやましいと思う。
「……」
久々に格納庫を静寂が支配する。あるのは機体のモーター音と、夏空に吸収される蝉の合唱だ。すべての生命力を注ぎ込んで鳴き続ける蝉の一夏の生き方は、人生よりも恵まれているのだろうか。
「……」
モニターの画像が静止している。もう何度目の失敗だろう。飛行距離二百二十四メートル、海抜ゼロメートル、対気速度ゼロキロ。シミュレーションとはいえ、お話にならない数字だ。飛行機の計器は完全に停止している。
「……朋夏?」
僕の声に、全員がはっとして頭を上げた。際限なく続くかに思われた墜落の繰り返しに、感覚が一瞬麻痺していた。コックピットの朋夏から、何の返答もない。墜落したままの画面を、リセットする様子もない。
「朋夏っ!」
僕は操縦席に駆け寄った。朋夏が脂汗をかいたまま、中でぐったりしている。風防を開けて、頬をぴしゃぴしゃとたたいた。
「あ……空太?」
朋夏の目が、ぱっと覚めた。全員が飛行機の周りに集まっている。朋夏は何事か、という表情をしていた。
「あれ?……あたし、ひょっとして寝ちゃった?」
「寝たんじゃない。気絶したんだろ」
「気絶……」
朋夏は何かを思い出そうと、首を傾げていた。
「そうか……私、シミュレーターで訓練をしていたんだ」
「宮前先輩、大丈夫ですか?」
半分泣きそうな顔になっている湖景ちゃんに、朋夏が微笑みかけた。
「あ……みんな心配しちゃった? ごめんごめん、なんか急に眠っちゃったみたい。あはははは」
その様子がいつもの朋夏だったので、僕は胸をなでおろした。
「実機でこれやったら、完璧に墜落だぞ。大丈夫なのか?」
「へーきへーき。さあさあ、もう一回やるよ。すぐに準備して」
僕らは朋夏の意気に押され、作業机の前に戻った。
「何か異状を感じたら、すぐに訓練を中止するんだぞ」
「わかってる、わかってるって!」
朋夏は快活だった。そして快調にモーターを回し、快調に離陸し、快調に機首下げをした。そして機首上げの直前、再び気を失った。
訓練は中止となり、朋夏も異を唱えなかった。部屋に戻る朋夏の後姿は、さすがに悄然としていた。
もう一人、このテストプレイから様子が変わったメンバーがいる。
湖景ちゃんは朋夏の体の変調を、CGソフトの不具合と感じているらしい。朋夏の訓練の後、五時間以上もミニコンと向かい合っていた。机に向かう湖景ちゃんの背中から、以前にはなかった強い決意がうかがえた。しかし、その入れ込みようには、悲壮感が漂っていた。
「湖景、夕食できるわよ。休んだほうがいいわ」
「私は大丈夫ですから」
姉さんの誘いを素っ気なく断る湖景ちゃん。今までになかった光景だ。
「私も前にああなったから、わからないでもないけど……」
名香野先輩が心底困ったという顔をする。湖景ちゃんは困った時は、いつでも他人を頼りにしてきた。それが今では、誰も寄せ付けないというオーラをぴんぴんと発信している。
「僕が声をかけてみましょう。このままじゃ、体にも精神的にもよくない」
湖景ちゃんの元気がないと、名香野先輩の作業の手も止まってしまう。
「湖景ちゃん、少し休もう」
顔を上げない。返事もしない。キーボードを猛スピードでたたく指がまったく止まろうとしない。
「休憩を取りながらのほうが集中力が続くって。肩の力を抜こうよ」
「静かにしてください。気が散ります」
冷たい声だった。
僕が湖景ちゃんの肩をたたくと、びっくりするくらいの勢いで振り払われた。しかし僕と目が合うと、しまったという表情をした。
「ごめんなさい……でも、私のせいでみんなに迷惑をかけてしまって……せめてこれくらい」
「それなら大丈夫よ」
「……大丈夫?」
湖景ちゃんの視線が、名香野先輩の顔を力なく見つめる。
「うまくいかなかったら、別の飛行プランを用意するって。今、教官と花見君が相談中よ」
「それじゃ、だめなんです!」
湖景ちゃんの声に珍しく怒りが混ざった。
「私が……私に任された初めての仕事なのに……前に平山先輩が言ったじゃないですか。私にしかできない仕事だ、って」
名香野先輩の時と同じように、湖景ちゃんは仕事の責任感に押しつぶされそうになっている。しかも湖景ちゃんにとって、この仕事は失われた二年間を取り戻す作業でもあった。それをあおったのは僕だ。
「もしかしたら……CG酔いじゃなくて、画像をリアルにしたのが問題だったのかも……」
僕も朋夏が気絶した原因が画像ではないかと疑い、コックピットに座ってみた。画像は多少角張っていたが、かなり現実の風景に近かった。
「だけど、もしリアルにしたのが原因なら、朋夏が本当の飛行機で水面飛行をしたら、やっぱり気を失うんじゃないか」
そう言うと、必死に動いていた湖景ちゃんの手がぱたりと止まってしまった。CGなら大丈夫でも実機で墜落では、ますますシャレにならない。実際に墜落する前に原因が見つかったのは、不幸中の幸いと言うべきなのか。
「私……やっぱりダメなんでしょうか」
湖景ちゃんの表情が暗くなっていく。
「湖景ちゃんのシミュレーターが原因と決まったわけじゃない。心配しすぎるのは体に毒だよ」
「先輩……」
「それより、作業疲れで肩が凝っているんじゃない? 少しもんであげるよ」
「あ……」
僕は湖景ちゃんの両肩を指でぐっと押してあげた。指が入らないくらい筋肉が固くなっていた。
「やっぱり……姿勢とか、もうちょっとよくしたほうがいいかもな」
湖景ちゃんは最初戸惑っていたが、徐々に僕の体に背中を預け、ゆったりとリラックスしてきた。これはいい兆候だ。
「あ……気持ちいいです、平山先輩……」
湖景ちゃんが、うっとりとした表情で目を閉じる。
「痛かったら言ってよ。軽くするからさ」
「大丈夫です……なんだか……眠くなって……きちゃいました」
いきなり、がくんと首が落ちた。そのまま上体がずるずると、力なくいすから滑り落ちた。