二次創作小説「水平線の、その先へ」

当ブログは二次創作小説(原作:水平線まで何マイル?)を掲載しています。最初から読みたい方は1章をクリックしてください。

エピローグ 水平線の、その先へ(1)

 9月1日(火) 西の風 風力4 晴れ

 夏の日差しは、日を追うごとに柔らかくなる。九月最初の一日は、高く透き通る秋めいた空が広がっていた。

 午前中に始業式を済ませた後、僕は一人で内浜に来た。理由は、特にない。

 何となく足が向いた、としか言いようがない。旧校舎を見るのは大会翌日の8月8日、飛行機と機材を片づけて以来だ。今は吹き抜ける海風から体に巻き付くような湿度が消え、夏が終わりに近づいたことを実感する。

 格納庫の前で足を止めた。今はただの倉庫だ。鍵はもう持っていない。大会が終わった後、すべて学校に返してしまった。

 f:id:saratogacv-3:20210618123818j:plain

  鉄格子の入った窓から中を覗いてみる。暗い室内はがらんどうで、しんとしている。人がいない建物は、こんなに寂しいものなのか。

 名香野先輩のきびきびした指示、湖景ちゃんののんびりした笑顔、花見の真剣なまなざし、頭を丸めた朋夏の元気。そのすべてが懐かしく、思わず微笑んでしまう。あの時、僕たちは飛行機を作るという、大それた目標に向かって、まっすぐに打ち込んでいた。

 その夢を見せてくれたのは、いつもいたずらっ子のように目を輝かせていた会長だ。
 古賀沙夜子会長。

 大会を境に、僕は会長に会っていない。最後まで笑顔で応援し、大会が終わった後は、僕たちの努力を思い切りほめてくれた。だけど僕たちは、会長の自由を取り戻すことができなかった。

 優勝候補のチームが内浜海岸特有の巻き風にあおられ軒並み記録を落とす中、朋夏はフライト直前の花見の的確な指示を忠実に守り、水面飛行を完璧に成功させた。そして宇宙科学会は競技の終了寸前まで、トップを走っていた。

 最後の大学チームにはさしたる実績もなく、僕らは優勝を確信した。ところが彼らの飛行機は驚くほどの安定性で飛距離を伸ばし、僕たちの記録を二百メートルも上回って、文句なしの逆転優勝をさらってしまった。

 あの時の悔しさは、たぶん一生忘れられない。僕はその夜の準優勝会ではしゃぐ会長に、すまない気持ちでいっぱいだった。

f:id:saratogacv-3:20210618123526j:plain

 大会の翌日、旧校舎の片づけをして飛行機を運び出し、格納庫を閉めた。会長と教官は機材や飛行機を積んだトラックに乗って、東京へと向かった。会長は「すぐに連絡する」と言ってくれたが、あの日以来、何の音沙汰もない。

 次に宇宙科学会を離れたのは、名香野先輩だ。上村のシナリオ通り、中央執行委員長に復帰した。上村が滞らせた委員会業務の後始末をつけるため、文字通り夏休み返上で働き、僕も約束通り委員会の手伝いをした。だけど塾の夏季夜間集中講習に皆勤したバイタリティだけは、とても真似ができない。

 それにしても秋の学園祭の準備は、さすがに間に合わないんじゃないか……と心配していたら、一週間ほど前に中央執行委員会室で会った名香野先輩は、「上村君はサボったふりをして、実は契約の直前まで段取りをつけた状態で全部放置していたのよ」と笑っていた。

 花見は、航空部に戻った。大会の準優勝を見届けた航空部は、三年生の副部長ら幹部総出で宇宙科学会の部室を集団で訪れ、花見に頭を下げて復帰を請いたのだ。

 花見は部長ではなく、一部員として航空部に戻る条件を出し、そして予備パイロット兼主任整備士となった。今は新しい飛行機を設計することに夢中になり、航空工学を猛勉強中だという。恐らくあの機体を参考にした新しい傑作機が、もう花見の頭の中にあるのだろう。完成するのは大学に行ってからになりそうだが、報告を聞くのが楽しみだ。

 その結果、空席となった航空部の新メインパイロットには、なんと朋夏が納まった。準優勝の悔しさを忘れられない朋夏が、花見が復帰したと聞いて航空部に入部をねじ込んだ。大会の後も体作りをすると言って、毎日必死に走りこんでいる。朋夏に新しい目標が見つかって、本当によかったと思う。

 こうして宇宙科学会に残ったのは、僕と湖景ちゃんの二人だけになった。その湖景ちゃんもソフトウェアの勉強を始め、昼は大学入試に向けた塾、夜は専門学校に通っているから、名香野家の血は争えない。

 僕は中央執行委員会の手伝い仕事が一段落した後、遅ればせながら塾通いを始めた。湖景ちゃんと名香野先輩が進学コースに通う同じ塾で、高校一年基礎コースの教室に入るのは気恥ずかしかったが、身から出た錆で仕方がない。

 今は一日も早く同級生の学力に追いつきたい。土日はバイトだ。貯金を貯めて、大学生になれたら北海道に行くためだ。あの子の両親に会い、あの日の話をして、墓参りをしたい。それが僕の少年時代、最後のけじめだと思っている。

 大会の後も何かと忙しかった僕たちだったが、それでも宇宙科学会のメンバーが部室に月曜日に集まることだけは、なぜか恒例になった。

 僕と湖景ちゃんはもちろん、花見に朋夏、名香野先輩、なぜか上村までも加わって、持ち寄ったお菓子やジュースを広げながら飛行機作りの作業を懐かしんだり、教官の物真似をして笑い転げたり、ここにいない会長の思い出話に少ししんみりしたり、子供じみた馬鹿な話をしながら、正門が閉まる夜九時頃まで盛り上がっていた。

 そんな僕たちの夏休みが終わった。

f:id:saratogacv-3:20210618123645j:plain

 旧校舎を見上げる。僕以外に誰もいない校舎は、寂寥感がひときわ強い。

 ふと、この光景を初めて見た時に感じた懐かしさの正体がわかった。人の身勝手な都合で、まだ使えるのに人が通わなくなったこの校舎は、いつだって誰かが来ることを受け入れようとしているんだ。

 僕たちは、この校舎と同じだ。

 過去から逃げ回っていた僕は、僕の胸の苦しさを、本当は誰かに知って欲しかったんだ。会長のやり方は強引だったが、封印していた心の重い扉は確かに開いた。痛みを伴いながらも過去を見つめ直した僕は、大切な友人の苦しみも受け入れることができるようになった。

 人はいつも誰かに受け入れて欲しいと願っている。そして、愛する人を受け入れたいと思っている。大切な人が孤独を愛するように見えたとしても、僕はいつでも自分から手をさしのべられる人間でありたい。

 心が朽ちる前に、胸を張って友人と呼べる仲間に出会えた。かけがえのない時間を過ごした高校二年、内浜の夏の記憶を大切にしながら僕は生きようと思う。

「ありがとう、ございました」

 僕は物言わない旧校舎に向かって、自然に頭を下げていた。