二次創作小説「水平線の、その先へ」

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15章 折れた翼が 痛んでも(7)

 

 二年前の十二月二十四日。温暖化の進んだこの国の首都で、師走に雪がちらつくのは珍しかった。

 日本で最高の演奏の舞台として知られる、東京KCホールの前に立つ。自分がここで演奏する日がこんなに早く来るとは正直、予想しなかった。だが恐らく、一生に一度の機会になるだろう。伝統の桐花バイオリンコンクールの中学部門全国大会。ただし、僕が出場するのは本選ではない。

 県予選で二位だった僕は、全国大会に向けた一次選考にもパスした。東京でコンクール主催者の強化合宿兼二次選考会に参加したが、ここで予想通りに落選した。ところが、音楽の指導環境に恵まれない地方の生徒が、推薦で出場できる特別審査会の出場者に、僕の名前があったのである。

 特別枠と言っても全国で十二人だから、出場するだけで十分に名誉だ。しかも本選の前座として行われる審査会ながら、そこで最優秀賞にあたる特別奨励賞に選ばれれば、東京の名門私立音楽高等学校への推薦枠が得られる。

 僕は合宿を通じて、自分の腕では大都市で英才教育をされた同世代に到底かなわないことを学んだ。夢だったプロの演奏家になるには、ここで奨励賞を取って、東京に出るのが最後のチャンスだ。しかし特別枠でも十分にレベルは高く、推薦枠の道は極めて厳しい。地方の子供にとっては、演奏できるだけでも満足な舞台でもあった。

 ホールへと続く階段を上がっていくと、幼馴染みの姿があった。宮前朋夏は、ピンクの厚手のコートに黒い手袋の完全武装で、僕を待ち構えていた。

「なんだ、来なくてもよかったのに」

「せっかく来てあげたのに、その言い方はないんじゃないの?」

 中三夏の体操の全国大会は名古屋だったが、僕は両親に頼み込んで許可を取り付け、夜の高速バスに乗って朋夏の演技を見に行った。朋夏が会場で僕の姿を認めて、びっくりしていた顔が、今となってはいい想い出だ。

「そういえば、朋夏は推薦で内浜学園、受かったんだって?」

「うん。せっかくの運動推薦だし、がんばんなきゃ。空太は音楽学校?」

「ここで奨励賞とれれば、だけど。さすがにうまい人が多いし、正直通用しないと思う。これが終わったら、本気で受験勉強しないとまずいし」

「空太の成績なら、今でも東葛高校だって余裕じゃん。それに演奏だって、きっと評価されるよ。だって、他の人よりずっと、元気があるもん」

「それって、腕は低いって言ってるのと同じだぞ?」

「そんなことないよ。空太の演奏は、みんなを勇気づけるから、トップのチャンスもあると思うんだ……でも同じ学校に通えなくなるのは、寂しいなあ」

「内浜は、通うにはちょっと遠いからな」

「空太、朝弱いもんね」

 朋夏の吐く息が、白かった。

 僕は会場に入り、出場者だけに許された楽屋に入った。そこで、僕は見知った男の子の姿を見つけた。前回の合宿の時に席が隣で、なんとなく一緒に練習して、親しくなった子だ。男の子といっても僕と同じ中三なのだが、僕よりずっと背が小さく、おとなしくて、きれいな顔立ちで、つまり美少年だった。二次選考で落ち、一緒に特別枠に残ったが、僕より腕は上だった。

 その子がバイオリンを持って、緊張に震えている。僕はその子に近づき、ぽんぽんと肩をたたいてやった。

 ――平山君、ありがとう。ボク、君に感謝している。

 僕に気づいたその子から、再会のあいさつよりも先にお礼の言葉を言われて、僕は戸惑った。

「なんだよ、急に。僕は何もしてないぞ」

 ――ううん、とっても心強かった。予選会の合宿で、君が僕の友達になってくれて。ボク、一人で北海道から出てきて、周りに友達がいなかったし。それに周りが全部、ライバルに見えたんだ。でも君のことなら、ボクは信頼できる気がしたんだ。

 なんだか改まってそう言われると、妙に背中がむずがゆくなる。確かに、このコンクールでの本選や特別枠審査会の出場は、音楽家として人生を歩めるかどうかの岐路になる人が、たくさんいる。僕は合宿でも、そんな殺伐とした空気をひしひしと感じて、居心地が悪い気がしていた。

「それは僕も同じだよ。東葛から来たのは、僕だけだから」

 ――両親と兄弟は、みんな音楽家でね。ボクだけ出来損ないなんだ。

「出来損ない?こんなにバイオリンがうまいのに?」

 ――そんなことないよ、本選に落ちたし。それにボク、パパにもママにも、このコンクールを受けるって、言ってないんだ。

「え? 北海道から出てきたんだろ?」

 ――うん。黙って出てきた。

「そんな……三日もいなかったら、家出と間違えられるんじゃないか?」

 ――別に。心配なんかしない。この前の合宿も、親には黙って出てきたけど、家に帰っても何も言われなかった。

「そうなんだ……でも旅費とか滞在費とかは、どうしているんだ」

 ――貯金してきたお小遣いでなんとか、ね。それももうすぐ、なくなっちゃうけど。帰りの飛行機代もないから、これが最後のチャンスなんだ。

「そうまでして、この大会に賭けているの?」

 ――本選に出られなくて、がっかりしたけど。奨励賞を取れば、あすの新聞に載るよね。そうしたら両親は僕に気づいて、迎えに来てくれると思う。

「……」

 ――ごめんね、変なこと言って。手を抜いてほしいんじゃないんだ。ただ平山君なら本当のこと、話せるかなって。

「きっと勝てるよ、君の腕なら。大丈夫」

 ――うん。ボク、がんばるから。平山君にも、負けないから。

 僕はそれを聞いて、吹っ切れた気がした。どの道、プロでやっていくのは、無理な話だ。そんな僕の夢であり、目標でもあった東京KCホールでの演奏。それがかなった今、奨励賞は二の次でいい。審査員にどう思われようと、僕にしかできない演奏をやろうと、心に決めた。

 僕は導入から、わざとリズムを崩して緩急を作り、伴奏が戸惑うのもかまわず、感性に任せて弓を操った。演奏が終わると予想通り、ホールは静寂に包まれた。みんな、あきれていたに違いない。しばらくして会場の上から拍手が起き、それがさざ波のように会場に広がったのが、心地よかった。あの拍手は朋夏だ、とすぐにわかった。

 特別奨励賞の審査は長引いた。僕には無関係の話なので、気楽だった。

 だが、それは誤解だった。特別枠は所詮、本選に出られなかった生徒の敗者復活戦で、半ばお祭りでもあった。技術で上手な子供は、本選で表彰すればいい。一番の選考基準は将来性だった。審査は僕の破天荒な演奏の評価でもめたと、あとで聞いた。

 結果発表が始まっても、僕は鼻歌を歌っていた。あの子の演奏は予想通り、完璧で精緻だった。絶対に奨励賞を取れる。僕はそう信じて疑わなかった。

 あの子の名前は、二位で上がった。僕は驚いた。あの子より上手な演奏は、記憶にない。いったい誰が、と思った次の瞬間、僕の名前が呼ばれた。

 特別奨励賞。予想もしなかった逆転劇に、僕は呆然とし、数瞬してから、喜びが体を突き抜けていった。隣のその子と、目があった。僕を見つめて大きく開かれた瞳は、後にして思えば、すべての希望を吸い尽くしたかのような、あの真っ黒な虚空だった。僕は喜びのあまり、その子が固く握った拳を無邪気に握りしめ、スポットライトの当たる壇上へと向かった。

 僕にとって、至福の時間だった。自分の思い通りに弾いた演奏が認められたことに、誇らしい気持ちがあった。真面目に正確に弾くしか能がない連中の演奏に勝ったことにも、満足感があった。

 表彰が終わると、僕はステージを駆け下りて、あの子の姿を探した。僕とあの子が座っていた席は、すでに冷たくなっていた。僕はあの子が特別奨励賞を取れば、どうやって祝福してあげようかと、ずっと考えていた。それなのに、僕が勝った途端にいなくなるなんて。小さい奴だな、と僕は内心で舌打ちした。

 僕は舞い上がっていた。あの子がどんな思いで、僕だけに秘密を打ち明けたのか。僕はあの子の友達面をして、理解者のふりをして、何も理解せず、くだらない優越感に浸っていた。あの頃の僕は自分でも嫌になるくらい生意気で、偽善者で、最低の人間だった。

 翌朝の新聞に、ビルから身を投げた子供の記事と、コンクールのパンフレットに載っていたあの子の写真が、笑顔で並んでいた。

 その日を境に、僕は二度とバイオリンケースを開かなかった。それしかできることを思いつかなかったし、何よりバイオリンに触れる気が起きなくなってしまった。

 音楽学校の推薦を断った僕は、朋夏以外に事情を知る友人のいない内浜学園高等部を進学先に選んだ。そして、ささくれきった心に南京錠をかけて封印し、宇宙科学会で無気力と怠惰の日々を、過ごしてきたのだ。

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