14章 無窮の闇に 囚われて(8)
お母さんの姿が見えなくなると、僕と花見は同時に大きな安堵の息を、胸から吐き出した。
「平山君、助かった……正直、どうなることかと思ったよ」
「それは僕も同じさ。でも湖景ちゃんががんばったからこそ、お母さんを説得できたんじゃないかな」
僕は、見たままの湖景ちゃんを、お母さんに伝えたに過ぎない。湖景ちゃんを救ったのは、湖景ちゃん自身だ。
「そういえば、津屋崎さんたちは?」
「ああ、忘れていた。いや、あっちも大変だと思うんだが、会長に任せてある……ちょっと、様子を見てくるよ」
格納庫を出ると、僕はグラウンドに二人の姿を認めた。座っているのは名香野先輩、寄り添っている黒髪は会長だろう。
「ソラくん、ご苦労様。湖景ちゃんのお母さん、帰ったみたいだね?」
「ええ、なんとか。それより、湖景ちゃんは?」
「海の方に降りて行ったよ。ソラくん、またお願いできる? ヒナちゃんは強い子だから、もう少しで落ち着いてくれると思うんだけど」
名香野先輩は、うつむいたまま微動だにしない。ここまできたら、僕も最後まで責任を取るしかないだろう。
再び先輩を会長に任せて、僕はグラウンドの端から芝生の坂を降りて行った。そして国道を渡り、磯を見渡してみると、岩場の上で海の生物を探すかのように座りこんだ、湖景ちゃんがいた。
「湖景ちゃん?」
「あ……平山先輩」
顔を上げた湖景ちゃんの目は、真っ赤だった。こうしてみると、丸くて大きな目元は明らかに、お母さん似だった。
僕は、湖景ちゃんの横に座った。僕の動く姿が見えたのか、磯だまりの赤い小さなカニが、慌てたように岩場の陰に隠れた。
「お姉さんの話……ショックだった?」
「はい、少し……でも、姉さんを責めるつもりはありません。姉さんにしてみれば、当然ですよね。こんな私がいなければ、姉さんは幸せだったのかも」
それは違うんじゃないか、と僕は言った。
「お姉さんは、誰よりも湖景ちゃんと会う日を、楽しみにしていたんだよ。でも、同時に迷っていたな。妹に本当に好かれているのかなって」
灯台で、名香野先輩が会長と僕に打ち明けてくれた日を思い出す。
「そんな……私はいつだって、姉さんが大好きでした! 姉さんのことを知ってから、ずっと会いたいと思っていました」
ムキになって話した後は、また視線が下がっていった。
「でも、こんな弱い妹でいいのかなって。姉さんはすごい人なのに、いざ会ってみたら、こんな頼りがいのない双子の妹で、本当によかったかなって」
「それで姉さんに追いつきたいと、作業をがんばり過ぎたんだね」
湖景ちゃんは、しゅんとなった。
「湖景ちゃん。僕が思うには、無理に追いつこうと思わないで、のんびり生きるほうが大事なんじゃないだろうか」
「のんびり……ですか?」
湖景ちゃんは、意外そうな顔をする。
「私はいつも、のんびりしています。のんびりしすぎていて、先へ進まないんです! それで二年も遅れちゃって……」
「それは、君の体が、のんびり休みたいと思っているからじゃないのかな」
「え?」
湖景ちゃんの瞳が揺れる。
「ねえ湖景ちゃん。僕は病気のことはよくわからない」
僕は湖景ちゃんに、言い聞かせるように語りかけた。
「宇宙科学会に参加して飛行機作りに取り組んだことも、お姉さんと再会したことも、君のこれまでの人生ではなかったくらい、刺激的な経験だったと思う。だから、体がのんびりしたいと、思っているんだよ」
「だから私は、のんびりしてばっかで」
「そこが違う」
僕は首を振った。
「休んで、退院して、そのたびに周囲に追いつこうとする。君はいつでも、そんな気持ちが空回りしていたんじゃないかな。のんびり屋さんと言われながら、気持ちは焦っていたんじゃないのかな」
湖景ちゃんが、何も言わなくなった。代わりにその瞳に、大きな涙がゆっくりとたまっていった。
「君の心は、いつもずっとずっと焦っていたんだ。友達ができない、運動ができない、もっと早く強い自分になりたい……君はのんびりさんじゃなくて、本当はせっかちさんなんだ」
「せっかち、さん……」
「自分の本当のペースを守るんだ。人が二年かかる道を、三年かかったっていいと思う。君の体は、君が壊れないように、君のことをコントロールして、時々休んでいるんだと思うよ。ウサギみたいなお姉さんの歩みに、追いつく必要はない。君は君のペースで、のんびり歩いていくべきなんだ」
湖景ちゃんの瞳から、大きな涙が溢れ出していた。
「本当に私……それで、いいんですか?」
「大丈夫、保証するよ。そうするうちに、お姉さんにも自然と追いつける。お姉さんウサギは速いけど、どうせ昼まで爆睡するだろう?」
湖景ちゃんの口元が、少しだけ笑ってくれた。
「私、無理に追いつかなくて、いいんですね……姉さんに、みんなに、追いつかなくて、いいんですね?」
僕は黙って、うなずいてあげた。
「私、ゆっくり、歩きます……そう言ってくれた人、初めて……やっと自分の生き方を見つけられた気がする」
あとはもう、涙で言葉にならなかった。僕は朝のお返しのつもりで、その小さな頭をそっと、なでてあげた。
「そうそう、お母さんは帰ったけど、湖景ちゃんに手紙を残してくれたよ」
「手紙、ですか?」
僕がポケットに折りたたんだ手紙を渡すと、湖景ちゃんはその文字に、じっと目を落とした。
「湖景へ。平山さんが、あなたが作ったプログラムを見せてくれました。あなたが成長し、あなたがみなさんのお役に立ち、一生懸命仕事をしていることが、よくわかりました。あなたのお姉さんも、あなたをよく支えてくれているようです。
私はあなたと、あなたのお姉さんを生んだことを、今でも誇りに思います。もう母のことは気にせず、あなたの行きたい道を、陽向と一緒に歩いてください。私はそれを見守ろうと思います。陽向もいつか、身勝手な私を許してくれるかもしれません。私はその日を、待ちたいと思っています。
老婆心ながら、母からのアドバイスです。同じところに、いつまでもとどまってはいけません。あなたがもっとみなさんのお役に立てるなら幸いです。07310205 母より」
「お母さん……心配させて、ごめんなさい……そして私をここまで育ててくれて、本当にありがとう」
寄せては返す波が、少しずつ僕たちから遠ざかりつつあった。引いた潮の向こうの水平線に、大きな夏の入道雲が立ち上っていた。