9章 想いは一つの 羽となり(2)
「先輩。少し、休みませんか」
すでに、日が傾きかけている。僕はもうきょう何度目か忘れてしまった同じ言葉を、名香野先輩にかけた。
「ごめんなさい。今、大事なデータを取っている最中だから」
名香野先輩の返事も同じだ。相変わらずつれない。
格納庫の隅になぜか、ビーチボールが置いてあった。さっき来た会長が、持ち込んだらしい。作業場に余計なものを、と思ったが、案外、名香野先輩の気分転換にと思って、置いていったのかもしれない。
「少し、バレーでもしましょうよ。湖景ちゃんと三人で」
「あなた、何を言ってるの? この狭い格納庫でバレーをしたら、飛行機壊しちゃうわよ!」
怒られてしまった。まあ、ふざけているとしか思えないですよね、普通。
「すみません。こういう時だからこそ、気分転換がいいのではないかと思いまして」
「気分転換?……そっか、私、みんなに気を遣わせているのね」
「いえ、そういうのじゃありませんって」
「私がみんなに、迷惑をかけている……」
先輩が自己嫌悪のスパイラルに陥りそうになって、少しあわてた。前にもこんなことが、湖景ちゃんでもあったっけ。名香野先輩の場合は生真面目のなせる技なのだろうが、妙なところで姉妹なんだな、と感心したりする。
「何か進展はありましたか?」
おずおずと声をかけてきたのは、先ほどまでシミュレーターのプログラム調整に余念がなかった、その湖景ちゃんだ。
「今のところ、収穫なし」
名香野先輩の返答は短く、口調は苦い。
「でも大丈夫よ。テストデータもたまったし。あすには結論が出せるわ」
「出せるって、何か目処でも?」
名香野先輩は答えない。急に飛行機の尾翼の様子が気になりだしたらしく、手でぱたぱたと動かしている。
「先輩なら大丈夫、と思っています。ただ、時間も気になりますし」
「それもわかっているわ」
「あの……チェックも三人がかりなら、今日中に結論が出せるかもしれませんよ?私、姉さんの仕事を手伝いたいんですけど」
湖景ちゃんが、控えめに申し出たが、名香野先輩は疲れた笑みを浮かべただけだった。
「ふふ、ありがとう。でもあなたにはあなたの仕事があるんでしょ」
「あ、はい……でもシミュレーターの調整も、大体終わりましたし」
「それなら宮前さんの飛行データを、シミュレーターで確認すべき時じゃない? まだまだ仕事はあるわよ」
やんわりとした拒絶に、湖景ちゃんが黙った。ただでさえ押しが弱いだけに、相手が尊敬するお姉さんでは分が悪い。
「だったら湖景ちゃんにシミュレーターに専従してもらいましょう。代わりに僕が、先輩を手伝います。さ、何をしましょうか」
これなら先輩の面子も立つと思ったが、先輩が意外そうな顔を見せたのは、ほんの一、二秒だった。
「平山君にも仕事があるんじゃないの? ただでさえ男手は少ないのに」
「大丈夫ですよ。あの会長でさえ、最近は雑用を押し付けてこなくなったじゃないですか」
最初の頃は大会のレギュレーションの確認などもしていたが、ここ数日の雑用で思い浮かぶのは、会長が命令したお菓子の買い出し、会長が命令したゴミ集め、会長が命令した自転車のパンクの修理……そんなものだ。
「ほら、やっぱりあるじゃない」
「でも、さすがに飛行機作りの仕事と比べるのは……」
「時間がないのは、私もわかっているわ。それでも機体を任されているのは、私なの。責任者は私」
別に意固地になっているわけじゃないの、と続けた台詞が白々しい。
「じゃあ、こうしましょう。どうしてもダメだと思ったら、私から平山君に、真っ先にお願いするから」
体のいいあしらいには、僕も簡単に引き下がれない。ここは一言きちんと、と息を吸い込んだところで、思わぬ方向から邪魔が入った。
「ソラくん、雑用お願いー。飲み物の買い出しに行って欲しいんだけどー」
気がつくと格納庫の入り口、僕の背後に会長が立っている。
「悪いですけど、今はそれどころじゃなくてですね」
さすがに言葉にとげが入った。しかし会長のマイペースは変わらなかった。
「ヒナちゃん、ソラくんを借りるよー」
「え? ええ、かまいませんけど……」
「許可もらったよー。じゃ、そういうことで」
僕の意思を完璧にスルーした会長は、僕の腕に二の腕を絡めてきた。それを見た委員長の表情が、少し硬くなった。
「平山君には、平山君のお仕事があるじゃない。がんばってね」
名香野先輩は僕に冷たく背中を向けた。会長の力は思いのほか強く、僕は格納庫の外に引きずられるように連れて行かれた。
「せんぱい……」
湖景ちゃんが、悲しそうな目で僕たちを見つめていたが、「後は頼む」としか言いようがなかった。格納庫から出て会長の力が緩んだところで、僕はようやく腕をふりほどいた。
「ちょっと、なんであんなタイミングで止めるんですか!」
「私は押すんじゃなくて引いたほうがいいって言ったんだよー」
会長はけろりとした顔で言う。
「あの調子でいったら、ソラくんとヒナちゃんは喧嘩になっていたよ。誰が喧嘩しろって言ったのかなー?」
確かに、少し頭に血が上りかけていた。わからず屋、という言葉が頭に浮かんでいた。最初の目的は、押すことではなく引くことだったのに。
「これはアドバイス。若さで強引にいくだけだと、年上は落とせないよー」
会長の話の緩さに、ふっと気が抜ける。
「会長も年上なんですけどね。強引だけではダメですか?」
「それはどうかなー? 試してみるといいよー」
「やめておきます」
即答した。絶対に、取り返しのつかない事態になりそうな気がする。
「ヒナちゃんだって、わかっていると思うよー。結果が出ていないのは、誰よりも理解しているはずだからね」
会長が、勢いよく背伸びをした。気がつくと、僕はふだんの落ち着きを取り戻していた。
「とにかく話し合ってみることが、一番じゃないかなー?」
「でも、機体のことについては何も……」
「だから、そこが違うんだって」
会長が少し真面目な顔をした。
「機体の問題点を聞くことだったら、私にだってできるよー。でも私にはできなくて、ソラくんにできること、あるんじゃないかな」
いったいなんだろう。そこを知りたいんですが。
「ヒナちゃんの考えをわかるには、どうすればいいかってこと。ヒナちゃんはどうして、人を頼ろうとしないのかな。そこが根本的な問題じゃないの?」
会長は結局、僕に予定通りペットボトルのお茶の買い出しを命じ、僕に千円札を渡した。