14章 無窮の闇に 囚われて(7)
「ソラくん、お仕事。湖景ちゃんのお母さんに、湖景ちゃんを残してくれるよう説得して頂戴」
猫なで声で、予想通り無理難題を押し付ける。
「説得なんて……無理ですよ。お母さんのこと、僕はよく知らないし」
「私は湖景ちゃん姉妹の世話で精一杯だよー。ソラくんなら、なんとかしてくれるはずだよねー?」
毎度ながら、会長の自信の根拠は不明だ。そもそも、なんで僕なんだ。
「会長、お母さんとお知り合いなんでしょう?それなら会長から頼んだほうが、絶対に立場上も説得力がありますよ」
「え……そうかな?」
会長があごに指を当てて、考え込んでいる。どうやら会長が、少し乗り気になったようだ。これを逃す手はない。
「お世辞がうまいなー……私が頼むのって、そんなに説得力があるかな」
「お世辞じゃありません! 会長の説得だったら、誰でも嫌とは言えないはずです。その点については、僕が保証しますよ!」
会長がにっこり笑った。なんだか猛烈に嫌な予感がした。
「じゃ、その私からソラくんに頼むよー。お母さんの説得、お願いねー」
……ずるい。完全にはめられた。
ただ考えようによっては、名香野先輩の告白で姉妹がどうなるのか、こっちが修羅場かもしれない。それを引き取った会長に感謝することにして、僕はいったん、格納庫に戻った。
湖景ちゃんのお母さんは、まだ椅子に座っていた。花見がその前に座っているが、どう声をかけてよいのかわからず、心底困っている様子だった。
「あの……湖景ちゃんの、お母さんですよね?」
お母さんが顔を上げた。目は真っ赤だったが、さすがに涙は見せない。
「あなたは……平山さんですね」
「僕のことを、ご存知なんですか?」
「湖景がいつも、学校から帰ったら話していましたから。平山さんがいてくれて、とても頼りになるって」
向き合ってみると、湖景ちゃんのお母さんは、どちらかというと名香野先輩に似ていた。若い頃から優秀なプログラマーだったというが、自分で工場を切り盛りするくらいだから、たぶん性格も名香野先輩に似ているのだろう。すると、湖景ちゃんの性格はお父さん似なのかもしれない。
何から話してよいのかわからないのは、花見と一緒だ。ただ僕は、花見よりも湖景ちゃんとのつきあいが長い。学校の湖景ちゃんがどんな子なのかは、お母さんに説明してあげたい。
「湖景ちゃんは、ずいぶん前から病気だったんですか?」
僕は先に、湖景ちゃんのことを聞いてみた。
「ええ、本当に小さい頃から。最初はよく寝る子くらいにしか思わなかったんだけど、三歳になっても寝てばっかりで、さすがに変じゃないかと思って、病院に相談したんです」
そうしたら、やはり睡眠時間が長いことや、突然眠ってしまうことがわかったらしい。病院はいろいろ調べたが、心配した脳の腫瘍や発達の遅れなどはなかった。ただそうなると原因不明で、打つ手がないのも事実だった。
「体は丈夫じゃなかったので、運動は十分にできなかったし、急に眠って学校を休むことも、よくありました……それでも小学校までは、周りが事情を知った子ばかりでよかったのですが、中学になると色んな子がいたようで、学校で男の子にからかわれたりしたみたいなんですね」
中学になると、いくつもの小学校から人が集まって、一気に交際の幅が広がる。お母さんは「からかわれた」と言ったけれど、これがいじめなのだろう。男性の初対面に極端に弱い理由も、たぶんそれだ。
「中三のクラスで特にひどくなったみたいで、学校から帰っても、ずっとふさぎこんでいる日が増えました。それで夏休みが終わって二学期が始まる前、急に眠ってしまって、それっきり……」
二年間、病院で目を覚まさなかった、というわけか。
「あの……湖景は、学校で変な様子とかは、なかったのでしょうか?」
「ええ。僕たちの学会では、そんな様子は一度もありませんでした」
物静かで人見知りはするが、それを除けば元気な子だと思う。
「湖景ちゃんは五月の少し前に、会長に連れられて部室に来ました。僕と話をするまで一週間以上かかったけど、朋夏がすごく面倒見がよくて……」
「朋夏さん? 宮前さん、ですか?」
「あ、はい。その宮前が、湖景ちゃんを妹同然にかわいがって、一緒に遊んだり、おしゃべりを夕方になるまで楽しんでました」
湖景ちゃんは朋夏と親しくなり、朋夏と親しかった僕にも、ゆっくりとなついてくれたのだ。
「それで六月になって、会長が急に飛行機作りを始めて。そうしたら湖景ちゃんがソフトにすごく強いことがわかって。それから名香野先輩も加わって。そのころから急に、湖景ちゃんに頼りがいがでてきたんです」
「あの子が、皆さんに頼られた?」
「はい。湖景ちゃんなしに、僕たちの飛行機は航空部に勝つことはできませんでした」
「平山君の言う通りです。航空部長だった僕が言うんだから、間違いありません」
花見が援護射撃をしてくれた。お母さんは「そう」と、意外そうに答える。
「お母さん、あの……お願いがあります」
「なんでしょう?」
僕は一呼吸、置く。
「僕たちは湖景ちゃんに、もう少し自信をつけさせてあげたいんです。お母さんにも、協力していただけませんか?」
「自信?」
「はい。湖景ちゃんは僕たちには心を許してくれますし、ここにいる花見とも、つきあう時間は短いのに打ち解けてくれました」
花見が少し恥ずかしそうに、頭をかく。
「ただ、自分の教室ではまだ……浮いているというか、うまくいってない部分もあるみたいなんです」
一学期に湖景ちゃんの部室滞在時間が長かったのは、教室になじめず、会長や朋夏しか、心を許せる仲間がいなかったからだと、僕は思っていた。
宇宙科学会が解散しそうになった時、ひどく狼狽していた理由が、今はよくわかる。
「だから二学期が始まるまでに何とか……自信をつけさせたいのですが」
「自信、ですか。でも、どうやればいいのかしら」
お母さんが、思案顔になる。
「たぶん自信がなさそうなのは、二年も入院して病気がちで、人よりも経験が少ないと思っているからではないかと思います」
湖景ちゃんは、当初は合宿に行くのも不安がっていた。それが、自分が頼られ、自分にできることがあるとわかると、急に生き生きとしてきた。
「だからこの合宿が貴重な機会、なんです。湖景ちゃんにとっては、みんなとご飯を食べるのも、みんなに頼られて作業をするのも、お姉さんとベッドで話をするのも、朝起きるとみんながいるのも、たぶん全部初めての経験なんです。湖景ちゃんは合宿で、当たり前のことに挑戦し続けることで、成長するんじゃないか。僕は、そう思っています」
人は短い時間でも、成長できる。長い冬を過ごした固い種子も、春が来るとウソのように内側からほどけて、大きな柔らかい芽を出すのだ。
「湖景ちゃんは今、みんなに頼られています。会長も先輩も機械は強いけど、制御システムを構築できるのは、湖景ちゃんしかいません。僕たちは湖景ちゃんの能力を信じています。みんなが信じなければ、湖景ちゃんはきっとまた、自信をなくして、元の引っ込み思案の子に戻ってしまうでしょう」
「あの子が、みなさんの頼りに……」
そこで僕は、湖景ちゃんが作った飛行機の制御システムを、お母さんに見せてあげることにした。湖景ちゃんのミニコンを渡し、お母さんがプログラムを開くと、ピッチ角の自動調整ソフトが起動した。
「これ……本当に湖景が作ったソフトなんですか?」
「はい。合宿で毎晩、遅くまで作っていました」
「あの子が……遅くまで作業を……」
お母さんが、娘の作ったプログラムをスクロールしながら見ていく。
「この本は?」
「湖景ちゃんが作業が終わった後、夜中まで読んでいたそうです。人間が安全なソフトを作る勉強をしたいからって。大学の工学部で勉強したいって、言ってました」
たぶんお母さんの本棚から、持ち出した本ではないだろうか。
「大学の工学部? あの子が?」
「はい。ただ、今、システムにいろいろと問題が起きています。でも、湖景ちゃんはそれを、自分で解決しようとしています」
「……」
「お願いです……二度と無理はさせません。でも僕たちには、湖景ちゃんの力が、必要なんです。そして湖景ちゃんはみんなに必要とされている。そして湖景ちゃん自身が毎日チャレンジして、毎日成長しているんです。眠り続けた二年間を埋めるために」
湖景ちゃんの体調不良を見逃した責任者として、こんなことを言えた義理ではないことは、わかっている。でも、僕は言わずにはいられなかった。
「大会まで、あと一週間です。お願いします」
お母さんはしばらく、湖景ちゃんのプログラムをじっと見ていた。そしてミニコンを、ぱたんと閉じた。
「平山さん」
「はい?」
「驚きました。あの子がこんなプログラムを作るなんて。私はあの子の母ですが、いつも仕事が忙しくて……これまで、あの子をどうやって守ろうか、そればかりを考えていました。でも、どうやって成長させるのかを、一度も考えたことがなかったのかもしれない」
お母さんは、深いため息をついた。それをお母さんの責任にするのは、酷だろう。お母さんは母子家庭で工場を切り回しながら、病気がちの娘の面倒を必死で見てきたのだ。
お母さんは周囲を見渡しながら、「何か、書くものはないかしら」と小さな声で言った。花見が、あたふたと机にあったボールペンと紙を探し、渡した。
お母さんはしばらくペンを手に持って考えた後、さらさらと文章を書き始めた。横から覗くと、とても達筆な文字で手紙が書かれていた。五分ほどでペンを置き、僕に向かって手渡した。
「平山さん。湖景を、よろしくお願いします……あの子に、がんばるように伝えてください。あと、陽向にも」
お母さんは僕たちに深々と頭を下げて、格納庫を出ていった。