12章 機体に夢を 膨らませ(4)
「それじゃ、みんな食べるといいよー」
会長のあいさつで、最初の夕食を迎えた。作ったのは朋夏と花見、メニューは麻婆豆腐だ。自分が作ったような顔をしているが、もちろん会長は関係がない。
「すごくおいしいです」
一口ほお張って、満面の笑みを浮かべたのは湖景ちゃんだ。
「でしょでしょ湖景ちゃん? ポイントはね、ちょっと辛くしておくことだよ。ガーって食べて、パーっと汗をかけるんだ。あとホワジャンとパクチーをパパっとね」
「朋夏、ガーとかパーとかパパっととかはやめて、もうちょっと日本語の語彙を増やしたほうがいいんじゃないのか」
「何よ、ロクにうまいとも言わずに食べるくせに。そういう男は、奥さんに嫌われるんだよ?」
「気が利かないのがソラくんの特技だからねー」
「確かに、平山君は作り手に感謝の言葉も言えないなら、明日は作り手になってもらおうかしら」
「まったくだぞ、平山。これをうまいと言わねば男が廃るというものだ」
「平山君って……宮前君の尻にしかれるタイプかな」
「花見、いつ僕が朋夏を娶ると約束した!」
「うふ……ふふふふ」
僕への攻撃で会話が盛り上がっている途中で、急に湖景ちゃんが笑い出したので、みんなの視線が集中した。
「どうしたの、湖景?」
「あ、姉さん……すみません、なんだかうれしくなっちゃって。こんなに楽しいお食事、初めてです」
湖景ちゃんがお腹をかかえて一人、笑っている。対照的に食卓は静かになった。みんな湖景ちゃんに何を言おうか、迷っている。そこで僕が声をかけた。
「湖景ちゃん、言った通りだろう? 初めては不安だけじゃないって」
「はい」
「ちょっと……平山君、湖景に何を言ったのよ?」
お姉さんは僕たちの会話が理解できないことに、激しく動揺していた。僕は湖景ちゃんと顔を見合わせ、そして笑いながら言ってあげた。
「秘密です」
「秘密ですよね、平山先輩」
名香野先輩が完全に停止したのは、初めての光景だった。五秒ほどしてようやく動き出した時には、傍目から気の毒になるほど落ち込んでいた。
「湖景が……隠し事をするなんて……平山君と一緒に、私の手の届かないところに行ってしまうなんて……」
「だ、大丈夫ですよ、姉さん。姉さんは、ずっと頼りにしていますから!」
まるで姉妹が逆転したかのような姿に、みんなの間に自然に笑いが広がった。湖景ちゃんも、いい笑顔だった。これで合宿への不安感が抜けてくれると、いいんだけど。
夕食を片づけて部屋に向かう時、湖景ちゃんに袖を引っ張られた。
「あの……平山先輩、少しいいですか?」
「何かな?」
湖景ちゃんがそっと袖を引き、誰も行かないはずの合宿棟の二階に連れていく。それとなく、名香野先輩がいないことを確認した。見咎められたら、何を言われるかわからない。それにしても、何が起きるのだろう。なんだか、ちょっとどきどきしてきた。
「あの……平山先輩……その」
暗い合宿棟の廊下で、月明かりに照らされた横顔でうつむく後輩。うーん、これはまさかひょっとして、いわゆる一つのあの展開じゃないだろうか。
「平山先輩!」
湖景ちゃんが何かを決意したように、きっと僕を見上げた。
「こんな楽しい合宿に誘っていただいて、ありがとうございました!」
ぺこりと頭を下げる湖景ちゃん。やっぱり僕が馬鹿でした。胸から緊張の空気がぷしゅーっと音を立てて、抜けていった。
「なーんだ。そんなことか」
「私にとっては、そんなことじゃないんです!」
真剣な顔に気圧されて、僕が言わんとした「そんなこと」の裏の意味は、墓場まで秘密にすることに決めた。
「そっか。楽しいと思ってくれるなら、何よりだよ」
「実はこの合宿で、個人的な目標を立ててまして」
目標。飛行機をきちんと作るってことだろうか。
「えっと……もっと親密に……仲良くなるってことなんですが」
もじもじし始めた後輩の姿に、僕の胸の空気が、再び急速注入された。
「えっとね……湖景ちゃん、それは」
「その……姉さんと」
墓場まで持っていく秘密、二つ目決定。
「姉さんからたくさん学んで、もっともっと私の経験値を増やしたいんです……あれ、平山先輩。どうかしました?」
「いやいや、ははは。実に湖景ちゃんらしい目標だと思ってさ。でも大丈夫、その目標なら達成できることを保証するよ」
「本当ですか?」
「一緒に生活すると、先輩の違った面が見えるってことじゃないかな」
合宿で同室なら、私生活を共にすることに等しい。ましてあのタイプは、意外に抜けている気がするので、この合宿では姉さんの意外な一面を、湖景ちゃんは見るのではなかろうか。
「そうですね! 姉さんの好きなものとか知りたいです。お料理とかも、教えてもらえるでしょうか?」
「頼んでみたら? 先輩のことだから、きっと教えてくれると思うよ」
「はい!」
湖景ちゃんのささやか過ぎる目標を聞いていると、なんだか心が温かくなる。もっと姉妹の仲が近くなってくれれば、うれしい。
「あのさ、湖景ちゃん。ここだけの話、湖景ちゃんは名香野先輩のことを、どう思っているのかな?」
名香野先輩が湖景ちゃんをどう思っているかは、ふだんの行動を見ていればわかる。それに長く生き別れた妹に対する複雑な思いも、以前聞いていた。しかし湖景ちゃんが姉妹の告白をどう受け止めたのか、姉への思いを聞いたことは一度もなかった。
「理想の人……でしょうか」
少し考えた後で、おもむろに顔を上げた。
「だって、すごい人ですよ! 委員会の仕事もこなすし、全校の憧れの的だし、美人だし、勉強もできるし、機械も強いし……」
湖景ちゃんが指を折りながら、名香野先輩のいい点を列挙していく。そのどれもが、うなずけるものだ。
「何もできない私の姉さんだっていうことが、いまだに信じられなくて……」
湖景ちゃんの思考がマイナス志向に落ち込んでいく。前にもあったパターンだ。朋夏を見習えとは言わないが、ポジティブに物を考える癖をつけないといけない。どう言えばいいのかと頭をめぐらせると、すぐに答えが出た。
「やっぱり姉妹だから、似ていると思うよ」
「え?」
湖景ちゃんが、意外そうに上を向いた。
「勉強ができるところとか、シミュレーターに強い点とか。名香野先輩と方向は違うけど、よくできる、集中できるという点では、とても似ているんだ」
「そんな……姉さんみたいに積極的になれないし、私……」
「そこは性格の違いで、能力の違いじゃない。しかもふだんの仕草とか、ちょっと安心した時の顔つきとか、目元とか。やっぱり姉妹なんだなって、納得することがよくあるよね」
姉妹に見える、という言葉は、湖景ちゃんを勇気づかせた。
「はい……平山先輩がそうおっしゃってくれるなら」
「僕だけじゃない。ウソだと思うなら、会長や朋夏にも聞いてごらん。絶対、似ているって言うから」
「は……はい! 私、もっと姉さんに似ることができるように、努力します!」
それはちょっと個人的にうれしくない。湖景ちゃんの良さと名香野先輩の良さは、やっぱり別だ。というより同じ学会で名香野先輩が二人に増えたら、空恐ろしい気がする。
「こ、湖景ちゃんは自分の良さを伸ばすってことで、いいんじゃないかな?」
「今の姉さんの姿が、もし二年後の私だとしたら……元気が涌いてきます」
それはないだろう。だが二年後には湖景ちゃんも自分を受け入れられるくらい、精神的にたくましくなっていればよいのだ。
「湖景ちゃんが理想に思う名香野先輩も、完璧じゃないからさ」
「そうなんですか?」
「例えば、その……お人好し過ぎる点とか、仕事を抱え込む点とか」
「それは姉さんが特別に優しい人だからではないですか?」
そういう好意的な解釈もあるか。
「そうかもね。でもそのお陰で会長に振り回されっぱなしじゃないか」
「あはははっ、確かにそうですね」
ようやく明るい笑い声を出してくれた。最後の冗談は、昼間の会長の気遣いに対するフォローでもある。
「湖景? どこにいるの?」
階段の下で、怖いお姉さんの声が聞こえた。見つかったら、何を言われるかわからない。反射的に、寄り添って身を固めた。湖景ちゃんの胸から心臓の鼓動が体に伝わってきて、逆に緊張した。
「湖景?……変ね、格納庫かしら」
ぱたぱたと、遠ざかる足音が聞こえる。僕たちは至近距離で目を見合わせて、それから思わずクスリと笑いあった。
「……もう。もし平山君が一緒だったら、ただじゃおかないからね」
遠ざかる独り言に、僕らの生命活動は瞬時に停止した。
湖景ちゃんとこっそり別れると、僕は少し時間を置いて、格納庫に向かった。きょうから夜でも作業が可能になる。格納庫には花見と名香野先輩がいて、朋夏は肉体労働係となって飛行機の解体作業をしていた。
「平山君。どこ行ってたの?」
こちらをうかがうような、先輩の目だ。
「えっと……ちょっと部屋で休んでました」
「そう」
疑わしげな視線を投げたが、先輩はそれ以上は何も言わなかった。
花見の設計が終わるまでの間、僕たちは格納庫で部品の整理と組み立て作業の確認をすることにした。車輪など大きな部品は組みあがったままだから、組み立ても思ったほど大変ではなさそうだ。部品の削りこみは翼や機体のリムをいじることになるだろう。外さないと難しいもの、固定して削れそうなものを、名香野先輩の指示でチェックを進めていく。
「花見君って真面目だねー」
暗くなってからの野外トレは危ないので、作業を手伝う朋夏がそう漏らした。同感だが、宇宙科学会に加わって間もないとはいえ、肩に力が入り過ぎているような気もする。
「ちゃらんぽらんな朋夏と一緒なら、ちょうどいいパイロットチームになるんじゃないか?」
「入部したての時って、周りによく知っている人がいないから緊張しちゃうんだよね。でもせっかく仲間になったんだから、早く打ち解けるといいな」
「そうだな。僕もフォローするけど、朋夏が仲良くなってくれると助かる」
「了解。パイロットのコツ、いろいろ聞きたいしねー」
こいつの明るさと前向きさがあれば、花見もそのうち僕らのペースに慣れてくれるだろう。
「それはそうと、空太」
朋夏がにっこり笑った。
「なんだ?」
「誰がちゃんらんぽらんかー!」
合宿最初のヘッドロックが決まり、僕はまたもあえなく三カウントを喫した。花見と名香野先輩に白い目で見られたことは、言うまでもない。そんな作業が一段落ついた頃には、長かった最初の合宿初日が終わろうとしていた。