二次創作小説「水平線の、その先へ」

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8章 きらめく星に 見守られ(7)

 7月16日(土) 北西の風 風力2 快晴

 予選会まで、あと一週間。きょうは白鳥の、二回目の試験飛行の日だ。

 今回は滑空場に着いてからも、入念にモーターテストを繰り返した。初飛行の高揚感はなくなり、僕たちは整備に集中した。今回の飛行で問題が見つかればすぐに修正が必要だし、問題がなければ、明日の日曜日に飛ばす必要はない。つまり今回が、最後のテストフライトになる。

 教官の指示で、コースは予選会と同じ条件の、直線の距離飛行とした。前回の飛行で確認できたのは、LMGが飛べるのはせいぜい数百メートル、時間にして二~三分ということだ。今回は滑空場の一番南東の端から離陸し、北東奥の敷地に降りる。ふだんはモグラも使わない空域なので、直線なら自由にフライトを設定できるのが魅力だった。もっとも、少し東にずれると飛行禁止空域の民有地に入るため、朋夏には直線とはいえ、慎重な操縦が必要になりそうだ。

 名香野先輩にとっては、自分の作った飛行機が飛ぶのを見る最初の機会でもある。機体検査は微に入り細に渡って、先輩の厳しいチェックが入った。少し鬼気迫るような雰囲気があり、やはり精神的に追い詰められているのでは、と不安になる。しかし、隙がないチェックはさすがだ。前回の飛行で先輩がいれば、飛ぶ前に問題に気づいたかもしれない。つまり、僕たちの整備は甘かった。やはり全員で力を合わせなければ、この白鳥を満足に飛ばすこともかなわない。

 僕がモーターの給電線を外した時には、もう夕焼けで空が真っ赤だった。東の空から徐々に黒のカーテンが侵食してくる。数分しか飛ばない飛行機なので、この時間からでもフライトには、十分に余裕がある。気がつくと夕凪で、風がほとんど止まっていた。コンディションは、絶好だ。

 朋夏の飛行機が、滑走路から助走を始めた。今回は陸上でぐんぐん速度を増し、じっくりと離陸のタイミングを待つ。白鳥がふわりと浮かび上がり、順調に高度を上げた。機体は二、三回上下に揺れたが、左右にはほとんどぶれがない。やがてバッテリーが切れ、飛行機が滑空を始めて、ゆっくりと着地した。一回目より、はるかに安心して見られたフライトだった。

「前回は旋回もあったから、本当はずっと難しかったんだがな」と、教官が笑った。「本格的なフライトは行わない」と言っていたが、実際は厳しいミッションを課していた。「宮前とこの飛行機なら、無事にやり遂げるという確信はあった」と言っていたが、見ている方は気が気ではなかった。

 僕たちは飛行機を追って、朋夏の元へと走った。朋夏も前回よりずっと余裕があるようで、飛行機の風防に腰かけて、僕らの到着を待っていた。

「宮前、上々だ」

「オス、教官。距離、どれくらいですか?」

「トモちゃん、お疲れ! 記録は八百十三メートルでーす」

 会長の手にあるのは、視界で距離が測れる優れものの双眼鏡だ。

「前例のない機体だからどのくらい優秀なのかわかりにくいけど、まずまずじゃないかなー。トモちゃん、操縦した感触はどうだった?」

「前回より、スピードに乗りやすかったです。モーターも、無理していない感じで」

 湖景ちゃんが飛行データを元に補足した。

「バッテリー切れまでの時間も、ほぼ予定通りですね。でも滑空距離は予想を上回っています。宮前先輩の落ち着いた操縦のおかげですね」

「いやー、きょうは風なかったし、あたしは操縦桿握ってただけだから。あんまりほめないでよ」

 にへへへ、と朋夏はだらしない顔で笑った。

 一人難しい顔をしていたのは、名香野先輩だ。名香野先輩は腕組みをしたまま、機体をにらんでいた。

「宮前さん、機体のバランスはどうだった? 何回か上下動していたけど」

「少し、前が落ちそうになる気がしたんですよね。それで機首の引き上げをしたんですけど、急に上げると失速しそうになるので。でも、なんとなくタイミングがつかめてきたみたいです」

 朋夏はそう胸を張ったが、名香野先輩は不満の様子だった。

「ギヤの部品がまた重くなったから……なんとかうまく調整しないと」

「予選会までに機体を改良するとしたら、その辺りとなりそうだな」

 教官が、名香野先輩の言葉を引き取った。

「ただし予選会までは時間がない。チームでよく話し合い、このままいくか、改良するかの方針を早急に決めるのが、次にやることだな」

 飛行機を分解して旧校舎に運ぶ頃には、八時を回っていた。朋夏と門限のある湖景ちゃんは、滑空場からまっすぐに家路につき、会長と教官は、僕と名香野先輩を格納庫で降ろして、借りたトラックの返却に向かった。格納庫に機体を入れて汚れをとる作業は、僕と先輩が請け負った。名香野先輩は作業の間、必要な指示以外の言葉を、何も話さなかった。

 帰り支度を済ませ、僕と先輩は、すっかり日が暮れた格納庫を出た。僕が手洗いに行っている間、先輩は一人で星空を見上げて、待っていてくれた。

「きれい……」

 旧校舎の上には、うっすらと天の川がかかっている。確かに天の川を見たのは何年ぶりだろう。だが僕はむしろ、星明りに照らされた先輩の少し上向きの横顔に、しばし見とれてしまった。

「平山君……」

「……はい?」

 一瞬、返事が遅れた。

「決めた。私はこの夏、この飛行機に賭ける」

 名香野先輩が、唇をかんでいた。頬に星明りが一筋、反射したような気もしたが、一瞬のことでよくわからなかった。

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「私にはもう、これしかないもの」

 そんなことはない。会長のような天才ではないにしても、名香野先輩のマルチな才能は、やはり傑出している。僕のように際立った才能のない人間には、うらやましいだけだ。そんな人間でも、挫折感を味わうのか。

 スポーツは過程がすべてだ、と教官は言った。しかし、人はたまたま成功したか失敗したか、その結果がどう転んだかで、人生が大きく変わることがある。それが時には、取り返しのつかない心の傷となることもあるのだ。

「名香野先輩は、一時的なショックでそう思っているだけです……今、この飛行機に賭けようと思ってくれる気持ちはうれしいんですけど」

 僕と先輩は、夜の国道の脇の歩道を、肩を並べて歩いた。時折ヘッドライトが海面を照らしながら、僕たちの横を通り過ぎる。

「それに、受験は大丈夫なんですか?」

 高校三年生の夏なら、進学希望者は誰でも不安になるだろう。名香野先輩のような優秀な人なら志望大学のレベルは高いはずだし、全国から優秀な受験生が集まる大学なら、先輩でも絶対安全圏とは言えないはずだ。

「正直、不安よ。この夏は塾に通うつもりだったから。でも、このままじゃ、私の高校生活は終われない」

 僕たちの活動に、そこまで言ってくれるのはうれしい。しかし、名香野先輩の言葉には、追いつめられた人間にしか出せない悲壮感がある。先輩をそこまで追いつめているのは、誰なのか。

 僕は何かを聞こうとして……口から出たのは、全然別の言葉だった。

「実は、上村を殴ってしまいました」

 え、という表情で名香野先輩が顔を上げた。

「でも、今は後悔しています。会長にも、諭されてしまって……」

 僕は自分の考えを、正直に話した。上村に何が起きているのか、僕にはよくわからない。でも、上村は僕に、名香野先輩を支えてくれと言った。

 そして今回のクーデター騒ぎには、腑に落ちない点が多い。なぜ上村が先輩を支えなかったのか。そして歴史の傍観者を自負していた男がなぜ、わざわざ全校生徒を敵に回すような行動を起こしたのか。

「うん……委員会にも正直、未練はあるわ。上村君を恨むつもりもないし、だからといって委員会活動を、このまま終わるつもりもないの。秋の学園祭の改革とか、部活動費の使途の透明化とか、委員会記録の整理とか……やりたいことは、まだまだたくさんあったから」

 でもそれは飛行機が終わってからにしましょう、と名香野先輩は言った。つまり飛行機作りは、先輩なりのけじめなのだ。そのために自分のことは、すべて後回しにしている。

「あの、先輩。僕、夏の大会が終わったら、先輩の仕事を手伝います。先輩がここまで手伝ってくれたんですから、今度は僕が手伝う番ですよ」

 名香野先輩はやっと、笑顔を見せてくれた。

「平山君が手伝ってくれるなら、心強いわ。でも、古賀さんがあなたを離してくれるかしらね?」

 それは問題ないでしょう、と僕は答えた。なぜなら会長も名香野先輩の存在を、とても大事にしている。ああ見えて、先輩の窮地には会長なりのやり方で、必ず側面支援をするはずだ。今、会長が動かないのは、名香野先輩を宇宙科学会にとどめたいだけではないと思う。会長は万事達観した上で、今は動く時ではない、と思っているのだ。

「私が言ったのは、そういう意味じゃないの。でも平山君は、古賀さんのことをとても信頼しているのね。うらやましいな」

 少し、どきりとした。それは会長のことなのか、僕のことなのか。だが、名香野先輩はそれ以上、その話には踏み込まなかった。

「……飛行機のこと、私なりに色々考えているから。明日までには、みんなに考えを披露できると思う」

 名香野先輩は、何かを決意したような瞳をしていた。