14章 無窮の闇に 囚われて(6)
朝、格納庫に来たみんなは、湖景ちゃんの姿を見て、一様に驚いた。
「湖景! こんなところで、何やってるのよ!」
もっとも反応が激しかったのは、予想通り名香野先輩だ。湖景ちゃんが大丈夫だと言っても、聞く耳を持たない。
「どうして平山君が止めないの? もし湖景に何かあったら、私、私……」
おろおろする名香野先輩に、僕は言った。
「もう湖景ちゃんに、無理はさせません。そのことだけは、僕が責任を持って約束します」
「そんな、あなたが約束したって……あなたは湖景に無理をさせた張本人じゃないの」
「はい、ですからもうそんなことはさせません。きちんと休ませながら、作業をさせます。名香野先輩、これは誰の強制でもない、湖景ちゃんの意思なんです」
「姉さん、大丈夫です。私は私の意思でここに戻ってきたんですから」
湖景ちゃんは自分の話を、もう一度みんなに説明した。名香野先輩は渋々納得し、「せめて涼しい研修室で作業をしなさい」と力なく言った。
「会長、どうでしたか?」
そこに会長が現れて、聞いたのは花見だ。会長は湖景ちゃんが格納庫に戻ったと知って、すぐに病院に電話し対応を聞いてくれた。
「コカゲちゃん……お薬はちゃんと持ってきたね?」
「はい。前から定期的に飲むように言われてますので」
「脳波とかの検査だと、昨日の夜にはも、普通に眠っていただけらしいよ。もともと目が覚めたら退院させるつもりだったらしいから、無理させないことと、予防薬を必ず飲んで普通に生活して様子を見てくださいって」
こういうプライベートな情報は、家族以外には話さないものだと思うが、会長はきのう湖景ちゃんを搬送した時に、うまく言って病院を信用させたらしい。こういう手回しの良さはさすがだった。
「ただ、このままってわけにもいかないだろうけどねー」
会長が小さな声で呟いた。
「なんですか、会長?」
「だって病院に連絡して終わりってわけには、いかないでしょ?」
会長の心配はほどなく現実となった。
全員で朝食をとり、朋夏と教官はロードワークに出た。残るメンバーで格納庫の作業を始めてまもなく、湖景ちゃんと同じ作業服の大人の女性が格納庫にやってきた。
「湖景……?」
これあるを予期していたのは会長だ。すぐに女性に歩み寄る。
「おはようございます。コカゲちゃんのお母様ですね?」
「はい……あの、湖景はこちらでしょうか?」
疲れた顔のお母さんの瞳が格納庫内を一周する。そして作業机に座っている湖景ちゃんの所で止まった。
「湖景っ! あなた、何をやっているの!」
似たような台詞は、僕を含めてきょう三度目だ。お母さんは湖景ちゃんのそばにつかつかと歩み寄ると、その腕をぐいとつかんだ。
「家に帰るわよ、湖景」
「私はもう大丈夫です、お母さん」
「大丈夫じゃないわよ! またあなたが倒れたら……目が覚めなかったらと思うと……どれだけ心配したと思ってるの!」
「お母さん、心配しないで。もう二度とあんな風に眠ったりしないから」
お母さんは、ほとんど泣きそうな顔となった。
「強がるんじゃありません! あなたの体は普通とは違うのよ? 病気のことだって、よくわかっていないの。まだ何もできない体じゃないの」
「私は普通の体です。自分の体のことは自分が一番わかります。あと、自分のことは自分で決められます」
湖景ちゃんは唾をごくりと飲んだ。
「お母さん、私はもう十八歳です。もうすぐ大人なんです」
思わぬ娘の反抗に、お母さんの顔に戸惑いが浮かんだ。そこで正面に立ったのが会長だった。
「お母様、私が古賀の娘です。沙夜子です」
「沙夜子さん……総帥の、娘さん?」
会長はうなずいた。どうやら湖景ちゃんのお母さんと会長の父親は、仕事上の知り合いらしい。
教官は以前、東葛には航空関係の優秀な技術者や工場が多いと話していた。
「父がお世話になっております。コカゲちゃんは病院を抜け出しましたが、正式に今朝、病院を退院しています。お医者様も無理をしなければ大丈夫と仰っています」
「でも……だからといって、ベッドで休ませてあげないと!」
「湖景ちゃんの体調に関しては、古賀が必ず責任を持ちます。この合宿を始めるにあたって、お母様からご承諾をいただいたではありませんか」
会長がじっと、お母さんの目を見た。会長は合宿を実行するにあたって、湖景ちゃんのお母さんにも事前に連絡をしていたのだ。恐らく父親経由で、湖景ちゃんの病気の話も以前から知っていたに違いない。
「古賀さんのお話はわかりますが、私は湖景の保護者です」
お母さんは、きっぱりと言った。
「湖景の面倒は私が見ますので。さ、帰るわよ、湖景」
「お母さん、だから私は大丈夫だって」
「じゃあ、何できのう倒れたの? 本当に……どれだけ私を心配させれば気が済むのよ、この子は!」
湖景ちゃんが、うつむいた。だがお母さんが湖景ちゃんの肩をつかむと、それを振り払った人がいた。
「母さん……私です。名香野陽向です」
「あ……」
お母さんの目が、大きく見開かれた。生き別れていた親子の再会。感動の場面のはずが、長女が母の前にけんか腰で立っている。
「母さん……母さんは湖景のことをずっと心配して……私のことは心配じゃなかったの?」
お母さんが、不意を突かれた顔をした。名香野先輩の目に、みるみるうちに大粒の水滴がたまっていった。
「私、ずっと寂しかったのに……母さんが傍にいてくれればって。湖景が傍にいてくれればって。ずっと会いたかったのに……私の話を、湖景にもしなかった……誕生日までウソをついて……どうして……どうして……」
名香野先輩の途切れ途切れの声に、悔しさがにじんだ。
「どうして離婚なんかしたのよ! 子供のことを思っているフリなんかして! 子供のことなんて、何にもわかってないじゃない! 保護者面して偉そうに勝手なこと、言わないで!」
そう言い捨てると、名香野先輩は格納庫から走り去っていった。
「姉さん!」
「ヒナちゃん!」
湖景ちゃんと会長が、先輩を追った。その後には、呆然とした表情の、湖景ちゃんと先輩のお母さんが残っていた。
格納庫に残ったのは、僕と花見も同じだ。だがあまりの急展開と事情の複雑さに、どう声をかけてよいのかもわからない。ともあれ、がっくりするお母さんをそのままにしておくわけにもいかない。
「少し座って……休んでいただけませんか」
先に動いて席を勧めたのは、花見だ。そして僕のほうを見ながら言った。
「津屋崎さんと名香野さんは、後で呼んできますので」
ここはいいから、様子を見てこいという合図だ。僕は息苦しい現場を選んだ花見に心の中で感謝して、外に出た。
三人の姿は、ほどなく見つかった。グラウンドの隅で、両ひざをついたままうなだれている名香野先輩がいる。その両脇を支えるように、会長と湖景ちゃんが寄り添っていた。
「私……やっぱり母さんが、許せないのかも」
名香野先輩が、ぽつりと言った。瞳に悲しみがいっぱいに広がっていた。
「それがなんでなのか、会ってやっとわかった。お母さんは、どうして長女の私でなく、二女の湖景を選んだのか。私は、私を選んで、ほしかったのよ……」
そう言って、ひざの間に頭を埋めた。
「姉さん……」
「湖景が悪いんじゃない。お父さんも大好きよ……でも、そうでしょ? お母さんが二人の子供を選ぶんだったら、普通長女を選ぶんじゃないの?」
子供を選ぶ、というのは、本当に残酷だ。親にとっても、子供にとっても。
「ヒナちゃんのお母さんは、たぶん、湖景ちゃんの病気を知っていたんじゃないかな。だから、あえて自分の手元に湖景ちゃんを置いたんだよ」
「……それなら、私が病気になりたかった」
名香野先輩は、頭を上げない。
「わかっているのよ。きっと、そういう理由なのよ。だけど、それで納得できない自分がいる。湖景をうらやましい、ずるいと思う、自分がいる。私は、そんな自分が情けなくて、許せないのよ……」
「うんうん。家族はずっと、一緒に仲良くいたいよね」
「そんなんじゃないの。そんなんじゃないのよ。私は浅ましい人間なんだ」
否定はしてみたが、隣に寄り添った会長に、名香野先輩はすがるようにして泣き出した。もう思いが止まらない、そういう涙だった。
そこで会長が、僕に気づいた。会長は、泣き濡れる名香野先輩の肩を湖景ちゃんに渡して、僕を少し離れた場所に手招きした。