二次創作小説「水平線の、その先へ」

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11章 眠りが覚めた 栄光の(7)

 昼食の弁当を片づけた後の午後。花見は改造に必要な機材や製図用具をそろえるため、教官の車でホームセンターに買い出しに出た。湖景ちゃんも母親に合宿の許可を取るため、旧校舎を離れた。シミュレーションが完成していないので朋夏は自主トレ、名香野先輩はミニコンに向かっていて部品のチェックシートを作る作業に入っている。

  さて、僕は何をしようか。そう考えていたら、会長が近づいてきた。

「ソラくんに一つ雑用をお願いしてもいいかな?」

 会長が立てた右手の人差し指の先に、いつの間にかキーホルダーがくるくると回っていた。

「合宿所の鍵ですか?」

「そう。合宿の許可をもらいに行った時、教頭先生から預かってきたの」

 そして研修センターの正面から入ると、僕らが使っている研修室を通り過ぎ、奥の扉を鍵で開けた。その先の廊下は真っ暗で、空気が淀んでいた。

「ここの掃除をしてください。それがソラくんのきょうの仕事です」

「掃除……一人で、ですか?」

「とりあえず一階だけでいいから。廊下の窓を開けて、ホコリを出しちゃってね。ただ食堂だけはきれいに掃除すること。自炊することになるから、食器も一通り洗って乾かしておいて。あと大事なのがお風呂とトイレの掃除、これはみっちりやってください。寝室部分は明日、各自がやることにするから、そのくらいでいいよー。あ、ブレーカーはこの上ね」

 会長は、にっこり笑って僕に鍵を差し出した。

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 その後で、僕は文字通り格闘した。最も重労働だったのは、浴室の掃除だ。シャワー部分は朋夏が運動の後に使っていたらしいが、浴槽はまったく手つかずだった。デッキブラシに洗剤をいっぱいにつけて、浴槽と床をごしごしと磨く。最後に湯あかと洗剤をいっぺんに洗い流すと、爽快感があった。

 飛行機作りを始める前の六月、理由もなく部室の掃除をサボった自分を思い出した。あの時は、会長に頼まれてもやる気が起きなかった。今では不平を抱いてはいるが、もっと大変な掃除も、嫌な気分にならない。僕も少しは、精神的に成長しているのだろうか。

 開け放した合宿所の窓の鍵を一つ一つを閉めて回り、格納庫に戻った時には、もう夕陽が傾いていた。

「空太、ごくろうさん。湖景ちゃんの許可、出たって!」

 これには少し驚いた。隣にいた湖景ちゃんが、「はい……病院の先生も、注意すれば大丈夫とおっしゃって」とうつむき加減で話してくれた。

「明日から全員参加、できそうだねー」と、会長がうれしそうに言った。

 格納庫では、機体の分解作業が進んでいた。力仕事なら、僕の出番だ。

「翼はとったから……次は?」

「胴体部はまとめて片づけてしまうから、平山君は後部に回ってくれ」

 長さ、幅、重量、重心位置、そして材質。さまざまな機械を使って、機体の隅々まで性能を確かめる。こうした機械の多くは、教官が会社から拝借しているそうだ。

 花見が、数値を読み上げる、分厚いマークシートの升目を、名香野先輩が一つずつ埋める。僕は機械の部品をとっかえひっかえする係だ。山のような作業量でいつ終わるとも知れないが、大会に向けての全工程からするとまだ取っかかりでしかない。

 機体の分解とチェックが一通り終わった頃には、すでに日が傾いていた。

「明日の準備もあるから、少し早いけど帰ろうか……あれ、花見君は?」

 着替えの終わった朋夏が、旧校舎の前で周囲を見渡した。言われてみれば、花見の姿だけがない。

「まだ格納庫みたいだな。ちょっと呼んでくる」

 僕がみんなを残して、花見を迎えに行った。

 花見はまだ、格納庫にいた。着替えてもおらず、荷物は朝と同じ、床に放り出したままだ。

「おーい、花見。そろそろ閉めるから、荷物まとめろよ」

 格納庫にいた花見は、僕の声が聞こえなかったかのように、じっと一点を見つめている。その先には、教官から僕たちに託された翼があった。

「花見、聞こえているか?」

「ん? あ、ああ」

 花見は相変わらず、機体に目を注いでいる。僕はその横に立ってみた。

「……噂に違わない名機だなあ」

 花見が呟いた。マークシートの数値を見ながら、翼に触れる手つきが優しい。手の届かない名工の技に惚れる、若い彫刻家のような表情だった。

「この機体って、そんなにすごい奴なのか?」

「二十年くらい前、地方の大学生が作った、幻の先尾翼型傑作機。モグラの地方大会で世界記録を出して優勝し、全国大会出場を目指していたんだけど、先尾翼の航空工学上の問題点をかなりクリアした斬新なアイデアで、航空会社の技術者が視察に来るほどの出来だったそうだ」

「よくわからないけど、二十年前の機体で、本当に勝負になるのか?」

「機体に使われるプラスチックシートは、この機体がまさに原型だ。デザインからは飛行性能の長短はあるけど、現在の機体と比較しても遜色はない。小型機で革新的な機体なんて、十年に一回も出ないからね」

「確かに見た目は美しい飛行機だと思ったけど」

「見た目の美しさは、重要なんだよ」

 僕の感想を聞いた花見は、笑った。

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「だって、美しいものが空を飛ぶんだから。タカもスズメもカモメも変わらない。空をよく飛ぶものは、例外なく美しい」

 美しい、という言葉が高校生の男子の口から出るのは普通違和感があるが、花見に限っては、そういう印象を受けなかった。上村も大仰な言葉を使う男だが、別の印象を受ける。

「知らないのか? 昔、日本にいた偉大な航空デザイナーの言葉なんだぜ」

「ふーん」

「僕は、真理だと思うな」

 飛行機乗りには、飛行機乗りの見方があるのだろう。美しい旋律を奏でるのは美しいバイオリンだ、という話と同じレベルだろうか。

「そういえば、どうしてこの機体って幻になったんだ?」

「全国大会に出なかったからさ。飛行機の調整がうまくいかない、なんてこの世界ではよくある話だからね。所詮は素人の作った機体だし、大抵そんなのは大会を盛り上げるための話題作りで、一過性で消えてしまう話題なんだが、この機体は違った。何年たっても、あの機体はすごかったって、技術者の話題になっていた。そう親父に聞かされた」

 視察に来た技術者は、花見の親父なのかもしれない。

「それが、どうして消えてしまったんだろう」

「練習中の事故でけが人が出た、という噂だ。それきり、機体を見た人はいない。五年ほど経ってから、ある航空雑誌が幻の傑作機を訪ねるっていう特集を組んでさ、この機体もその一つに入った。当時の航空部員にインタビューをしたらしいんだけど、一様に口が重かったらしい。機体の改良に失敗して解体された、それくらいしかわからなかった」

 なぜ、その機体が完全な形で、こうして目の前にあるのか。教官がその開発スタッフの一員であることは、間違いなさそうだが。

「この機体の技術の一部は、その後のグライダー開発で実際に使われている。プラスチックシートも、その一つだね。だから、この機体は今も見えないところで生きている……逆に言えば、今では必ずしもすべてが斬新とは言えない。それでも歴史的な機体の一つであることに変わりはない」

 花見の機体をなでる手が、優しかった。

「事情はわからないが、この機体が生きていた以上、これを飛ばすのは僕の責務という気がする。親父に聞かされていた機体に出会えただけでも、この学校に来たのが運命のように思える……できれば僕の手で操縦したい」

 僕の複雑な視線に気づいたのか、花見は首をすくめた。

「わかっている。飛ばすのは宮前君だ。僕は僕の役割を果たす。それが約束だからね」

 花見は、根っからのパイロットだ。その思いを、かなえてやりたい気もする。技術は高校生としては超一流だし、この機体と花見なら、全国大会でいい成績を収めることもできるかもしれない。しかし、そのためには朋夏を降ろさなければいけない。朋夏は電車で席を変わるような軽い調子だったが、本音はどうなのか。

 だが、こんなことはレギュラー争いをする運動部なら、日常茶飯事だろう。文化部だって、大会とかの出場者を決めるとなれば、嫌でも競争になる。それがしこりになるとは限らない……何よりも今は、機体をきちんと整備し、飛ばせるようにすることが先決で、花見はよくわかっているはずだ。

「おーい、空太、花見くーん。もう閉めるよ。早く帰ろうよー」

 その時、僕を現実に引き戻す朋夏の元気な声が、格納庫に響いた。

「帰ろうか」

「そうだな」

 名残惜しそうな花見の視線をさえぎりながら、僕は肩をたたいてやった。

 夕陽の中を駅へ向かって歩く姿はいつもと変わりなかったが、明日から合宿が始まるという高揚感が、僕たちを包んでいた。その中で、仲間になったばかりの花見が、会長や名香野先輩、朋夏と楽しそうに話していた。航空部と違って女子比率の高い学会、いきなり馴染むのも大変だと思う。ただ、あの三人はそういう気遣いには長けているから、それほど心配はないだろう。あるいは、僕よりハンサムで、真面目で神童と呼ばれた男に、単に熱を上げているだけかもしれないが。

 なぜか一人、湖景ちゃんは花見を囲んだ輪に加わらず、僕の隣をとぼとぼと歩いていた。無口で人見知りなのはいつものことだが、いつもよりも元気がないように見えた。

「あのさ、湖景ちゃん。もしかして合宿、やりたくなかった?」

「ど、どうしてですか?」

 湖景ちゃんが、戸惑ったような表情を見せる。

「いや、合宿の話の輪に入ってこなかったし、あれからなんか元気がないように見えるし」

 湖景ちゃんが、ふうっと、幸せがみるみる逃げていきそうなため息をつく。

「合宿のお話に、不満があったわけじゃないんです」

 遠い視線の先に、海岸の縁に沈もうとする太陽があった。

「私、遠足とか修学旅行とか、みんな病気で行けませんでしたので。だから合宿がどうだとか、私には何もわからないし、意見も言えないんです」

 これは何となく、想像がついていた。初めて友人と合宿に出かける時は、何が起きるか、どう振舞えばいいのか、家族や友人に迷惑をかけないか、誰でも心配になるだろう。

「だから不安なの?」

「はい」

「だったら」

 僕は大きく息を吸い込んだ。

「経験がない分、他人の倍は楽しめるって、考えてみたらどうだ?」

「え?」

 湖景ちゃんが、びっくりしたようにこちらを見る。

「自分の経験にないことは、不安になることだけじゃない。知らないから楽しめる、それで成長できることも多いってことだ」

「あ……はい。それは、楽しみですね」

「やっと、笑ってくれたか」

「少しがんばろうかという気持ちになりました。ありがとうございます」

 いつも引っ込み思案だが、本当は湖景ちゃんに、憂い顔は似合わない。ただ湖景ちゃんの悩みは、性格だけでなく、両親の離婚や病気などが関係していると思う。このまま元気をつけてくれればいいが、根が深いかもしれない。

「がんばりますね、平山先輩」

 最後に湖景ちゃんが、拳で控えめなガッツポーズを作った。湖景ちゃんの小さな背中を夕陽が照らしていた。