7章 鎖を断ち切る 闘いは(5)
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いよいよだ。一か月あまり、文字通り心血を注いで作ってきた飛行機が、大空に飛び立つ日がやってきた。
主翼を外した飛行機を、トラックで滑空場に運ぶ。トラックの助手席には当然のように会長が座り、僕たちは飛行機と一緒に荷台に乗った。滑空場で組み立て作業をしたのは、僕と会長だ。主翼を取り付け、テンションを張り直す。きのう一通りの作業をしているから、きょうは時間も短くて済んだ。名香野先輩の指導がなくても、チェックすべき点はだいたい頭に残っている。教官と朋夏はコックピットで操縦方法の最終確認を行った。湖景ちゃんは、とりあえずできる範囲までのデータは取ると言い張り、急ピッチでプログラムの調整を行っている。
「最初に言っておくが、これはあくまで仕上がりを見るための試験飛行だ。よって本格的なフライトは行わない」
準備が終わり、滑走路に横一列に並んだ僕たちに、教官が宣言した。
「え、そうなんですか? どう違うんだろ」
朋夏が首を傾げている。
「まだ仕上がりが完璧かどうかが、わからないからね。トモちゃんもこの機体で初めての飛行になるんだから、感覚とか勝手とかが何かと違うと思うよ。それを確認するのが、今回の飛行なんだよー」
「じゃあ、地面を浮かせる感じですか?」
「いや、飛行機は地面に近い方が危険だ」
どういうことだろう。
「離陸して地面が近いまま飛ぶと、速度が足りなくて失速しやすい。その上、非常時に緊急動作をする時間的な余裕がないから、ミスが即事故につながる。高度があれば、万一モーターが止まっても、滑空で滑走路まで戻ってくることが可能だ。飛行機は本来、高度が高い方が安全であり、ゆえに飛行機で最も危険な瞬間が着陸とされる」
なるほど、飛行機の世界には飛行機の常識があるのだ。
「高度計を見ながら、確実に安全高度に入る。それ以上は上がるな。高度を確保したら右一八〇度旋回、離陸した滑走路を越えて巡航、もう一度右旋回、それで着陸だ」
「オス、教官」
「バッテリー残量は常にチェックしろ。足りなくなれば並行する滑走路が空いているから、緊急着陸も考える。機体はお前が乗ってきた練習機より扱いやすいはずだから、落ち着いて操縦すればいいが、余計な動作は無用だ。絶対に色気を出すな」
「あたしに色気があるから、心配ないですよ」
「冗談を言う場面ではないっ!」
「……はい」
教官が怒ったのは、ふざけたからではなく、朋夏が大嘘をついたせいだ。
完成したばかりの機体を壊したくはないが、朋夏は仲間と一緒にいる時はふざけていても、本番ではきちんと集中できる奴だ。前に「スイッチが入る」と言っていたが、僕はその点では、全面的に朋夏を信用している。
機体の最終チェックをしていると、遠くから人影が近づくのが見えた。
「あれ、航空部の花見君だ」
一番視力のいい朋夏が、手でひさしを作って断言した。
「花見?」
僕は、思わず声を上げた。迂闊だったが、確かに花見が土曜日に滑空場にいても、不思議はない。しかし、この大事な初飛行の日に、よりによってライバルクラブのトップに手の内を見せてしまうのは、デメリットにしか思えない。せめて花見がいないのを確認してから滑空場に行く慎重さがあっても、よかった気がする。
「私が呼んだんだよー」
「呼んだ?」
会長の言葉に、耳を疑った。
「だってこんなきれいな飛行機の、初飛行なんだよ? みんなに自慢したいじゃなーい」
こっちが圧倒的に不利で、航空部の情報は何一つないのに、先に切り札を見せてどうする気だろう。
「お邪魔します、宇宙科学会のみなさん」
花見が僕たちに向かって、きれいに一礼をした。
「古賀さんからの連絡で、見に来させてもらったけど、本当にいいのかな」
「全然OK~。心ゆくまで、機体の隅々まで全部見ちゃってねー」
いつものことながら、会長の思考回路は理解不能だ。見せても勝算があるのか、初めから勝つ気がないのか、二つに一つとしか思えない。しかも前者である可能性は、限りなく低いように思える。
花見は驚いた様子だったが、会長に促されて機体に近づき、エンジンルームやコックピットの中をしばらく眺めていた。戻ると、笑顔で話し始めた。
「さすがに美しいなあ。ドイツ製のULG37滑空型」
すらすらと型番まで出てくる知識は、さすがだ。
「スカイスポーツの盛んなヨーロッパでは、優美なラインと白さから白鳥と呼ばれていて、低コストの割に安定性に優れた傑作と評価される、組み立て型ULPだよ。スピードは出にくいけど、初心者のレジャーから大会まで、幅広く活躍している。次世代の電気モーターで、これで空を飛べると思うと、わくわくするな……僕がこれで飛べないのが残念だ」
花見の話は、いつもながら屈託がない。飛行機のことになると、敵味方という意識が、吹き飛んでしまう男なのだ。そう思うと、飛行機を見せたのが誇らしく、損に思えなくなってしまうのが不思議だ。朋夏と湖景ちゃんも、その顔を見て、表情が緩んだようだ。
「それに、いい仕上がりだ。モーターは無事に積めたようだね。技術スタッフが真剣に取り組まないと、こうはいかない」
「当たり前だ。僕たちは真剣だったからな」
「あとは真剣に飛ぶこと、だ。このULPは低速でも安定して離着陸ができる優れモノだが、新デバイスは何が起こるかわからない。それにこの機体の場合、重量調節に苦労したはずだよ。重心を空タンクで調節していると思うけど、宮前さんも離着陸でのバランスは用心に越したことはない」
タンクは胴体に隠れて見えないはずだが、花見は機体の弱点も一目で見抜いてしまった。しかしそれは敵情視察と言うより、こっちに気を遣っている感覚だ。花見は飛行機を愛しているし、純粋に飛行機に詳しい先輩として敬意を表すべきだろう。
「アドバイスありがとう。航空部でバリバリやっている花見に言われると心強いよ」
「花見君、あたしも全力でがんばるからね!」
「花見先輩、予選ではよろしくお願いします! 私たちが一生懸命に作った飛行機ですから。お互いに悔いのないフライトをしましょう」
「ああ、そうだね。それにしても、僕はもう少し君たちに嫌われているかと思ったよ」
花見はうれしそうな顔をした。
「そろそろいいか? 風が弱いうちに試験飛行をしたいのだが」
教官は、僕たちの会話が途切れるのを待っていてくれたようだった。
朋夏がコックピットに乗り込んだ。きのうあらかた触っているが、モグラとは計器の種類も場所も違う。教官とみっちりと、最終確認をしていた。
その間、僕にできることは、何もない。湖景ちゃんは駐機場の横に机を置いて、無線機をセットした。その横で、ミニコンを開く。モーターの回転数や速度、高度など、計器の情報も飛ばしてモニターするらしい。
「プログラムのチェックリストを、少し組み直しました。間に合わなかった分はメモリにデータを保管して、着陸後に取り出せるようにしています。前に携帯電話から外したGPSを機体につけておきましたので、三次元の飛行航跡とあわせて、トレースしたモーターのデータを後から解析できるはずです。ただ暫定版で、完全ではありません。省略しているデータが多いので、何か問題があった時に、ばっちり拾うことができるといいのですが」
湖景ちゃんの表情が、やはり緊張している。僕も手の汗を拭こうと何度かハンカチでぬぐったが、濡れていなかった。やはり神経が高ぶっている。
後ろに座っている会長は花見に盛んに声をかけて、時々笑い声を上げている。自分が命令して作った飛行機がこれから飛ぶという緊張感が、かけらもない。鈍いのか大人物なのか、外見だけでは容易に判断しかねる。
十分ほどして、教官が風防を閉じて飛行機を降りた。無線から「湖景ちゃん、こちら朋夏。モーター起動します」と声が聞こえた。
「了解です。直前まで外部電源を使います。モーターとコンピューターのチェックを始めてください」
「了解」
「平山先輩、外部電源を外す準備をお願いします」
「わかった」
湖景ちゃんの指示で、今度は僕が飛行機に近づいた。モーターが起動し、プロペラが回り始める。機体のエンジンカバーが上に開いていて、モーターに給電線が接続されており、その先は飛行キットの燃料エンジンにつながっている。チェック作業でバッテリーを使うとすぐになくなってしまうので、外部電源で直前まで電力を供給することが必要なのだ。飛行機としての実用性はまだまだだが、プロトタイプの航空用モーターとしては上出来なのだろう。
やがて風防の中の朋夏がこちらを向いて、親指を上に突き出した。チェック終了の合図だ。僕は給電線を慎重に外し、エンジンカバーを下ろして掛け金で止める。モーターは止まらずに回り続ける。バッテリーへの電源移行も問題なかった。
「離れて、空太」
朋夏の口が動き、あわてて給電線を持って飛行機を離れた。時間は貴重だ。すぐに飛行機が動き出し、滑走路の端へと向かう。僕が湖景ちゃんの席まで駆け足で戻ったその時、無線機から「朋夏、行きます!」と元気な声が聞こえ、後ろでプロペラ音が急速に上がった。