二次創作小説「水平線の、その先へ」

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1章 果てない海と 空の青(3) 

 携帯GPSで位置を調べると、会長は旧校舎を出て坂道を東側に上がった先、灯台の付近にいるらしい。

 グラウンドの雑草を踏みながら、海を振り返った。世界はとても穏やかで、とても美しい。海も空も二十世紀の終わりに比べれば、ずっと澄んでいるという。

 旧校門を抜ける。僕達が通う内浜学園は、もともとこの場所にあった。

 都心の空気がまだ息苦しかった時代、学園は首都圏から八十キロという適度に遠い距離と、鉄道アクセスの良さ、手つかずの山と海が残る自然環境を売りに、内浜市に中学部と高等部を新設した。

 好景気に入ると、内浜市は隣接する東葛市にならって工業都市への転換を図り、アサリの好漁場として知られた海岸に広大な工業用埋立地を造成した。しかし完成に前後して景気は泡のようにはじけ、埋立地はまったく売れなかった。

 衰退しつつあった古い港町は、以前にもまして寂れた。二十年前に内浜駅と港町を結ぶ鉄道が廃止になり、埋立地の大半はスカイスポーツの練習場として整備された。

 学園前の駅もなくなり、学園は内浜の名を残したまま隣の東葛市に丸ごと移転した。敷地は旧寮だけを改修して学園の「研修センター」としたものの、建物自体が老朽化し、今は利用する部活動もほとんどない。

 立ち入り禁止の旧校舎は古びて見え、二十年という歳月以上の時間を感じさせた。だが僕は初めて見た時になぜか、旧校舎に郷愁に近い感情を覚えた。

 だらだら坂を三分ほど登り、高台の無人灯台にたどりつく。野球の内野の半分ほどの原っぱが広がり、海に向かって置かれた木製のベンチの表面は海鳥の糞でびっしりと汚れていた。昔は市民や生徒の憩いの公園だったらしいが、浜の衰退と共に訪れる人も少なくなり、今はカモメ専用の休憩所になっていた。

 ベンチの脇には、国道沿いにあるコンビニの脇へと降りる石段がある。ただ崖伝いで急峻な上、石段が崩れかけていて、「通行注意」の立て看板が立っている。

 さびれた公園の最奥。海を見下ろす無人灯台の近くに、後姿の人影があった。

 周囲の空を溶け込ませたような水色の学園制服に身を包んだ細身の女性が一人、風に揺れる黒髪とスカートを手で押さえながら、海を眺めていた。

 それはまるで上質な水彩画のような光景で、夏を間近に控えた強烈な日差しの中で陽炎に揺れ、なぜか涼しさを感じさせた。そして同時に、たまらない孤独感をたたえていた。

「かい……ちょう」

 呼びかけはカモメの鳴き声に打ち消され、中空をただよって消える。

 古賀沙夜子会長は今から一年ほど前、「宇宙科学会」という何が活動目的かよくわからない部活に、僕を引きいれた人だ。

 東大生を毎年輩出する進学校で、定期テストで一度も学年トップを譲ったことがないという神話のような天才。おまけに運動もできて美形、天が二物も三物も与えている。

 だが才色兼備だけでは、ここまで学園の有名人にはならなかっただろう。会長は、あらゆる意味で変わっている。

 宇宙科学会のこの一年間の活動を強いて挙げるなら、会長命令で強制参加の海水浴合宿とスキー合宿、秋のハーフマラソン大会くらいだ。最後のは悪夢のようにハードな運動だったが、会長は筋肉少女の朋夏に遅れをとったものの、息は朋夏よりも上がっていなかった。

 僕は、ただただこの人の言動に翻弄され、でもそれが嫌ではなかった。むしろ、砂漠のように乾きかけていた僕の高校生活を潤してくれて、本人もいつだって楽しそうにしているのに、ほんの少しの寂しさを感じさせる。そんな不思議な人だった。

 カモメの鳴き声が、耳奥にこだまのように響いた。まるで、会長の存在をかき消そうとしているかのように――。

 いや、まったく、僕はどうかしている。会長は、ただ海を眺めているだけだ。

「会長!」

 不安を打ち消そうとして、つい声が大きくなった。髪をかき上げていた会長の腕が途中で止まり、コマ送りの画像のようにゆっくりと振り返った。

 瞳に虚無を思わせる空色を映していたが、僕と目が合うと、すぐに瞳に生気が蘇り、小さな卵形の顔が微笑んだ。

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「何か、見えるんですか」

「……アメリカ」

 これまでの感傷が、吹き飛んだ。

「それはさすがに、無理ですから」

「……じゃあ、富士山?」

「なんですか、その『じゃあ』って! ここから富士山なんて見えませんよ」

「……すると、海かな。水平線?」

 やっぱり、会長の思考はわからない。

 わからないけれど、安心した。まともな会話が通じないのは、いつものことだ。つまり会長は、何も変わらない。

「風、強いですね」

「でも、気持ちいいよー」

 会長の髪は、ひっきりなしに踊っている。気だるい音で語尾を伸ばすのが、会長の癖だった。

「授業をサボって海を見るっていうのもいいですけど。会長は単位とか大丈夫なんですか?」

「ソラくん、反対なら反対って、はっきり言わなきゃダメだよー」

 いや、きょうの昼食時にサボリを「命令」と言って批判を封じたのは、あなたですから。

「それに授業サボったって、テストでいい点をとれば、それでいいんだよ?」

 これだから、天才は困る。

「テストは自信ないです。そうだ、それなら今度、マンツーマンで勉強見てくれませんか?」

「勉強? 別にいいけど……」

 会長は、本当に頼りになる。

「スパルタ式、ならね?」

「結構です」

 でも、あてにしてはいけない。それがこの一年間で身につけた、宇宙科学会での処世術だった。

「あらら、ソラくんに低気圧発生? 雨が来る前に、帰ろうか」

 会長がくるりと踵を返すと、黒髪もあざやかな円弧を描いた。

「では、毎秒一メートルで西南西の方向へ移動を開始」

「毎秒一メートルっていうのは、少し遅いんじゃないですかね」

 会長の奇言癖に、ささやかな抵抗を試みる。

「んー、確かにちょっと遅いかも。じゃあ、毎秒二メートルに加速」

「それは速すぎますって」

 颯爽と足取りを速める会長の後を、大股で追いかける。時折反撃をしても、こうして軽くいなされるのが常だった。

 会長が何を考えて行動しているのか、理解できる日なんて来るのだろうか。

 万一、会長の歩みに追いついてしまったら、理解できなかった日の幸せをかみしめる羽目になる気もする……そんなことを、とりとめもなく考えながら肩を並べると、会長が突然立ち止まった。

閉塞前線

「え?」

「追いついたら、発達した低気圧だねー」

「僕、そんなに機嫌が悪そうに見えますか?」

「違うよ、足が長いってほめてるんだよー」

 再び会長が歩き始めた。外した空間に漂っていた甘い残り香を、強い西風が一瞬で打ち払った。