二次創作小説「水平線の、その先へ」

当ブログは二次創作小説(原作:水平線まで何マイル?)を掲載しています。最初から読みたい方は1章をクリックしてください。

15章 折れた翼が 痛んでも(9)

 教官は、静かに語り続ける。後輩の意識は戻ることなく、それから一週間で生涯を終えた。後輩の両親は大学を訴えようとしたが、大学が多額の金を積み、裁判になる前に和解した。事実は闇に葬られ、大会を辞退し、教官は大学から放逐された。

「……だが人一人を死なせた責任からすれば、俺に対するあらゆる措置は、温情としか言いようのないものだった。何もかも周囲が穏便に、すべてを丸く収めてくれた。だが俺はいっそ罰せられた方が楽だった。俺は自分の罪をどうやって償えばいいのだ?」

 人を死なせた。教官の独白に、僕の手に汗がにじむ。

「そんな俺を拾ったのが、中島航空工業だ。正確に言うなら古賀の親父さん、今の総帥だ。学園に話をつけ、俺をグループの子会社で引き取った。そして俺に、飛行機をやれとだけ言った。俺はたった一人でこいつを改修し、安全性を上げる改良をした。だからといって、飛べる保証は何一つない」

 教官の顔に、自嘲の色が浮かぶ。

「だが総帥は正しかった。俺には飛行機しか才能がない。翼が折れようと、はばたくのが苦痛だろうと、鳥は翼で飛ばない限り生きていけないのだ」

 教官は、自分が生きることが正しいのかという疑問にも苛まれ続けたという。だが苦しんだ末に、己の生きる道を悟った。

「この修羅の道を歩くことが償いである、と。あの忌まわしい記憶を己に刻み込み、天に与えられた才能を生かし、誰もが安心して、安全に空を夢見る飛行機を生み出すことこそが、俺に課せられた究極の罰である、と。古賀の親父さんは俺に最も過酷な、贖罪の道を用意してくれたのだ」

 修羅の道を歩む、という決意。僕はもう息を呑むことしかできない。

 そこで教官は、急に話を僕に向けた。

「平山。古賀から聞いた話は要領を得ないが、お前は過去の罪意識に苦しんできたようだな。だがお前は自分の罪を、本当に償おうとして生きてきたのか?」

 僕は、胸に短剣を当てられた気がした。

 あの子の死に苦しんでいるふリをして、僕はどこかで、あの子の死は「自分には関係がない」「忘れたい」と思いたかったのでないか。

「誰でも自分の犯した過去の罪や心の傷に苦しむものだ。だが、人はどこかでそれを正面から見つめ、乗り越えねばらなん。そうでなければ人生そのものが空虚になってしまう。若者がたった一度の失敗で人生を投げてはいかん……俺は宇宙科学会の連中を見ていると、妙な歯がゆさを覚える。若い奴らはそういうものだ、とはあまり言いたくないのだが」

 教官の顔が、今までよりずっと厳しいものになる。

「ここにいる連中は、みんな自分自身から逃げたがっている。そして他人が苦しんでいるのに気がつきながら、それを見て見ぬふりをして、表面の仲の良さだけで繕おうとしている。その筆頭がお前だ、平山」

 教官は、僕の胸を指で射抜いた。

「お前は他人を助けるいい友人のふりをして、誰にも心を開かず、誰にも近づこうとしない。本気で向き合おうとしない。お前の生き方とは、お前の贖罪意識というのは、その程度のものなのか?」

 僕は乾いたのどをジュースで一気に潤してから、言葉を紡いだ。

「僕は……人が話したくないことなら聞きたくない。会長も朋夏も、きっとそうなんです。いつか自分の心の傷が癒え、乗り越えられる日を待っている」

「平山。お前は……いや、お前達は、やはり逃げている」

 教官は、サングラスを外した。そこに真摯な瞳があった。

「時の力は川の水が岩を削るのと同じだ……その力は偉大だが、人はその時間をただ待つことは許されん。平山に聞く。お前は他人に悩みを話さないことで、自分の悩みを本当に乗り越えたのか?」

 そうだ。僕は、ちっとも乗り越えていない。やったことは、バイオリンを投げ出しただけだ。

 教官のように罪と正面から向き合い、苦しんだ末の心の境地に達することもできていない。あの日の記憶を封印しようと、ただもがいてきただけだ。いざパンドラの箱を開いてみれば、心の痛みはあの時と何も変わっていなかった。

「こう考えてみろ、平山。人は、友人に話ができないくらい悩んでいる時こそ、自分の手に余る問題に悩んでいる。そういう時に悩みを聞き、助けられるのが友人ではないのか。自分一人の悩みだと信じて疑わない時こそ、人は真に手をさしのべる友人を必要としているのではないのか」

 僕は自分の心の傷を、一度も話さなかった。朋夏は僕の事情を薄々知っているかもしれないが、本当の理由を明かしてはない。

 僕は朋夏に慰められるのが嫌だった。「空太に責任はないよ」と言われるのを期待している身勝手な自分が、嫌だった。だがその理由は本当だったのか。僕は、僕が親友面をしている人のことを、信用していないのではないか。

f:id:saratogacv-3:20210504105328j:plain

「心の闇は、誰にもある。そして他人は所詮、他人の心の闇を照らす太陽にはなれん。生きるとは罪を重ねる長い旅路であり、心の闇は生きるほどに広がるものだ。それを光に変えるのは、己の心と、長い時の流れだけだ。それは世界に昼と夜があるのと同じ真理であり、他人が夜を昼に変えられると期待してはいかん……だがな平山、人は人の心の闇の中で、星のような光にはなれるのではないか。闇夜に星影があれば、旅人は道を失わずに済む。それがどれだけ人に勇気を与えるのか、想像できないか」

 教官の言葉が、しっとりと僕の心に染みこんでいった。

「僕は……僕の罪を今、償うべきなのでしょうか」

「自分の罪の意識を、焦って乗り越えようと思うな。己の心と己の罪に、真剣に向き合いさえすれば、それこそ時間が解決してくれる……だがお前は今それをすべき時ではない」

 教官の目が、力強く僕を見つめる。

「なぜなら、今の平山の前にはチームの一員として為すべき仕事がある。チームのために何ができるかを考え、まずは必死に生きろ。苦しむ友人のために、己に何ができるかを真摯に考え、行動を起こせ。過去の贖罪のことは、すべてが終わってから考えればいい」

 僕は教官の言葉に、救われた気がした。今度は免罪符ではない。生きている人間は犯した罪に向き合う時間も必要だが、目の前にある責任を果たすことが罪を悔いるよりずっと大事な時もある。

「教官……わかりました。僕が今やるべきことの一つが」

 僕は教官のほうを向いた。

「僕は会長や朋夏の友人になりたい。まず二人の話を聞いてみます」

 信頼できる友を見つけることは、本当に難しいことだ。だが長くつきあってきた朋夏や会長には、僕の心の闇を打ち明けてもいいと思える、信頼感がある。あとは二人が、僕に本気で胸襟を開いてくれるかどうかだ。

「畏れるな、平山。本当の友なら、お前の思いはきっと届く。もし相手が裏切ったら、お前の友に足る人間ではなかった、それだけのことだ」

「いいえ。会長と朋夏なら、大丈夫です……きっと」

 見上げた空に、天宮が無言で銀のきらめきを放っていた。