16章 輝く未来の 懸け橋に(1)
8月4日(木) 南の風 風力1 曇り
きょうも朝からミンミンゼミが、わが世の春が来たとばかりにけたたましい咆哮を上げる。いや、蝉にとっては春より夏なんだけど。夕方になればヒグラシ、夜はカエルと虫のオーケストラだ。田舎の夏は意外に静かな時間がない。夜も網戸以外は開け放しだから、余計にそう感じるのかもしれない。
今年の夏は、例年より暑い気がする。雲が太陽を薄く隠すと、かえって湿気が身にこたえる。元は体育館である格納庫には、もちろん冷房がない。ホームセンターから会長が調達してきた扇風機が孤軍奮闘しているが、現状は熱かくはん機でしかない。
「平山君……大丈夫なの?」
朝、格納庫に現れた僕に、心配そうに声をかけてきたのは、名香野先輩だ。僕は笑顔を返す。
「ご心配をおかけしました。もう大丈夫です。作業を休んで申し訳ありませんでした」
「そ、そう……じゃあ、作業はできるのね?」
「はい」
湖景ちゃんと目が合うと、困ったような笑顔を見せて、ぎこちなく会釈をしてくれた。心配はしているが、どう声をかけたらよいのかわからないという、わかりやすい顔だった。僕が倒れた事情を、二人が会長から聞いたかどうかは、よくわからない。
作業服姿の花見が、僕に近づいてきた。
「機体の調整は順調だ。ピッチシステムの異常の原因は、まだつかめていない。津屋崎さんが鋭意、究明に取り組んでいる」
花見は僕が倒れたことをまるで知らないかのように、事務的かつ簡潔に話す。これはこれで、花見流の気の使い方なのだろう。
「宮前君の飛行訓練は特に変わらない。うまくもならないが下手にもならない。時折意識が薄れるみたいだけど、本人が大丈夫と言うし、体力的には問題なさそうなので、続けさせている」
ここ数日、朋夏は半日近くシミュレーターと向き合っている。日課のトレーニングを終えると、実飛行がない日は仮想の空に挑む。まさに目標を達成するために、寝食を忘れて取り組むという感があった。だが努力をあざ笑うかのように、機体は墜落を繰り返している。
「パイロットの交代はどうなった?」
「ペンディングだ。いざとなれば機体の調整は前日夜の突貫工事でも不可能じゃない。ただそれをクリアしたとしても、ピッチシステムが改善できなければ、やはり水面飛行は断念せざるを得ないだろう……手動でピッチの切り替えをやるとなったら、宮前君の状態ではマスターしてもらうのは無理だな。飛行法を変えるしかない」
花見は、自分からこの機体に乗るという意思を一度も見せない。会長の態度も、その一因だろう。
「ピッチ制御部分の物理的な工事はどうなった」
「会長が全部一人で調整した。僕には触らせもしなかったよ。一人で仕事がしたいらしくてね……昨日、作業中は僕らと一度も口を利かなかったな」
「あー、もう! なんでうまくいかないのよ!」
がちゃん、と大きな音が聞こえる。その後で乱暴に風防が開き、朋夏が操縦席から這い出してきた。手袋を丸めて放り投げ、床にどかっと座り込む。名香野先輩も湖景ちゃんも声のかけようがない、という感じだ。
格納庫の隅に、会長がいた。誰とも接触せず、腕組みをしたまま暗い場所に立っていたので、気づかなかった。会長は僕のそばを通り抜けたが、視線を合わそうともしない。そして座っている朋夏の前に、仁王立ちした。
「トモちゃん。飛行機に八つ当たりするなら、あきらめてくれない? あなたがシミュレーターを独占していると、ハナくんが訓練できないの」
感情のないその瞳に、僕だけじゃなく名香野先輩や湖景ちゃんまでもが言葉を失う。僕たちを拒絶する、絶対零度の冷気を周囲に発散していた。
「嫌です」
だが朋夏は一歩も引かず、会長の視線をまっすぐに受け止めた。
会長は、攻撃をやめない。
「固執なんてしてません。ただ今の会長に命令されるのは嫌です」
朋夏の瞳に、怒りの炎が燃えている。それを氷の視線で、睨み返す会長。
その表情がますます硬くなり、それに合わせて格納庫の張りつめた空気が急速に増していく気がした。
「わわわ……あの、宮前先輩、そんなに怖い顔をしないでください……」
湖景ちゃんは、冷たい表情を貫く会長と、すっかり熱くなった朋夏に挟まれて、おろおろしていた。
「その……話し合うにしても、もっとお互いに冷静ならないと、いけないと思いますけど……」
大切な仲間同士の言い争いを見ているのが、辛いのだろう。その気持ちは僕にも、よくわかる。
「優勝に固執しているのは会長じゃないですか。なぜ自分の都合を他人に押しつけるばかりで、ご自分の問題を省みないのでしょうか?」
花見がやれやれという表情で頭をかき、名香野姉妹は固唾を呑むだけだ。大会まで、あと三日。宇宙科学会は、完全にばらばらになっている。これでは優勝など、及びもしないだろう。
だが、これこそ宇宙科学会がこれまで放置してきた最大の問題点かもしれない。
昨日の教官の話を聞いた僕には、不思議な冷静さがあった。
宇宙科学会が不真面目な遊びサークルである間は、それでよかった。だが僕たちは今、全国大会を目ざしている。
組織も人も、変わらざるを得ない。一事に真剣に取り組むなら、人が対立するのは当たり前なのだ。花見が率いた航空部のように。
「あたし、気分悪い。少し休んでくる」
朋夏は立ち上がって、靴音高く格納庫を出ていった。それを見送った会長は、僕らの顔をぐるりと見渡したが、何も言わずについと、旧校舎の方に向かってしまった。