9章 想いは一つの 羽となり(6)
夕闇が迫るコンビニの前に、長身の男がたたずんでいた。こいつと一週間も口を利かなかったのは、夏休みなどの長期休暇以外では、なかったことだ。
「やあやあ、出迎えご苦労」
上村はいつもの飄々とした雰囲気を、まるで変えていなかった。変わっていたのは眼鏡と、少し腫れたままの頬だった。
「この前は悪かった。だが、最初に言っておくが……僕はまだ、お前を許すことができない」
元を正せば、上村が名香野先輩をクビにしたところから、先輩の苦悩が始まっている。それを考えると、今はもう一発くらい殴ってやりたい気分だった。だが、もう短慮はしないと、誓っている。
「許しを請うつもりはないぞ、平山。俺は自分の信じる行動をとったまでだ。さて、その平山が仇敵である俺を予選会の直前に呼び出すとは、何かよほどの事情がある、と推察するが」
早く用件を言え、ということだ。確かにクーデター話を蒸し返すと、また感情が爆発しかねない。今はそれより、この男に確認すべき問題がある。
「名香野先輩のことだ」
「ほう。どんなことだ」
「お前なら、先輩のことをよく知っているだろう。知恵を貸して欲しい」
名香野先輩のことをよく知る友人は、僕の知っている限り、上村しかいなかった。中央執行委員会の副委員長として補佐してきたなら、先輩とのつきあいは長いはずだ。
クーデターの意図は不明だが、上村は先輩の力量を高く評価していた。僕がここまでの経緯を簡単に説明している間に、上村はベンチに腰を下ろして黙って耳を傾け、缶コーヒーを一本空けた。
「ふむ……ここまでの話の範囲から、鍵となる要素を指摘するならば、だ」
相変わらず、大仰な台詞を振り回す奴だ。
「まずは委員長が他人の手助けを固辞する理由を明らかにすることだな……何か、委員長に嫌われる理由はないか?」
ない。いや、気づかずに気に触ったことは言っているかもしれないから、確信はない。ただ、先輩は僕のことを嫌っているわけではないと思う。
「名香野先輩が寄せ付けないのは、僕だけじゃない。湖景ちゃんや会長も同じなんだ」
そして上村には仔細を話していないが、名香野先輩が湖景ちゃんを嫌うことは、ありえない。これは確信を持って言える。
「となれば、委員長の性格的な問題というわけだな」
上村が放り投げたコーヒーの缶が、ゴミ箱に吸い込まれていった。
「なぜあんなに意地になるのか……先輩は何でもできる人だから、かな」
「優秀な人間がしばしば抱える欠点。自分の能力の高さを過信し、他人がすべて無能に見える」
「そうかな?」
それは同意しにくい。先輩は、湖景ちゃんや僕の手助けをすることはあっても、僕たちを無能扱いしている様子は微塵もない。
「誰も委員長がそのタイプだとは言ってないぞ。優秀であることに否やはないがな」
理路整然とした思考に、活発な行動力。最近は人を上手に使うこともできていた気がする。だからこそ、なぜ他人が自分を手伝うことだけをあれほど拒むのか。
「なあ……名香野先輩って、なんで委員長になったんだ?」
「そいつはまた根本的な問題を出してきたものだな」
上村が真新しい眼鏡を外して、レンズの曇りをぬぐう。
「委員長になる前は報道委員会と兼任だったことは知っているか?」
それは水面ちゃんという生徒に聞いた。
「学園では報道委員会自体が委員会に匹敵する大きな力を持つ団体だ。報道委員会から中央執行委員長、というルート自体はそれほど珍しくない。それに委員長の場合は報道委員会でも優秀ぶりが轟き渡っていて、しかも委員会と両立させていた。さすがに委員長になってからはこちら一本になったが、ま、鳴り物入りで就任なさったわけだ」
すると来年はあの砲弾みたいな子が委員長、っていう可能性もありなのだろうか。ちょっと恐ろしい。
「名香野先輩って、そんなすごい人だったのか」
「言ったろう、学園有名人ナンバー2だと。もっとも俺にしてみると、そんな委員長を抑えるナンバー1の有名人が存在すること自体が驚きだがね」
会長の評判はこの際どうでもいいが、学園にしろ生徒にしろ、名香野先輩に対する周囲の期待が最初から高かったことは想像に難くない。しかも、その期待にきっちり応えてしまう……
「謎を解く鍵はその辺りにあるのではないか」
「と、言うと?」
「奇しくもお前が言ったように、名香野先輩の有能さについては誰もが認めるところだ……だが、それを疑う人間が本当に誰もいないのだろうか?」
名香野先輩の優秀さを疑う人間。会長?……いや、会長も先輩の有能さは認めている。
「ちょっと想像がつかないが」
「そうか。俺の知る限り、委員長をよく知り、委員長を優秀と思っていない人間が、世界に一人だけいる」
そんな……と言いかけた台詞を、僕は直前で飲み込んだ。
「まさか、その人って……」
「そう、委員長自身さ。そう考えれば、納得のいくことも多かろう?」
飛行機作りに詰まった後の、自信のない、自分に言い聞かせるような言動。その前に名香野先輩の仕事ぶりを湖景ちゃんとほめたら、妙に戸惑っていたこともあった。他人には謙遜にしか見えないが、あれは優秀という体面の鎧の下にある本心の戸惑いを覗かせたのではないか。
「本人には万能の自覚がないから、他人より多くの仕事をしているという自覚もない。その上、誰かさんのせいで勉強で一番をとったこともない。平山や宮前さんや古賀会長や、その湖景ちゃんとやらより、委員長が自分を優秀と思っているのかどうか怪しいものだ」
つまり名香野先輩は人一倍責任感が強い上に、他人と同じ仕事をしているという程度の自覚だったわけか。それで自分の仕事が行き詰まったら、その人はどんな行動に出るのか。先輩の有能ぶりを見ているとにわかには信じがたいが、その頑なな行動からはむしろ得心する。
「そのくせ余人より処理能力が明らかに高いし、目配りも利く。だから往々にして、周りの人間の仕事までも片づけてしまうことになる。ところがその逆が……つまり一度は自分の責任と決めた仕事について自ら望んで他人の手を借りた経験が、皆無に等しいのではないだろうか」
上村は苦笑した。
「見る目のない奴が見れば、優秀さを鼻にかける女にしか見えないだろう。だがあの方は自然かつ無自覚にして、ああなのだよ。まさしく天然の逸材、という奴さ」