8章 きらめく星に 見守られ(5)
部室には、朋夏と湖景ちゃんがいた。二人ともパイプ椅子に深く腰かけ、沈んだ様子でうつむいている。
「湖景ちゃん……名香野先輩は?」
「連絡が取れません……昼に教室に行っても、いなくて」
やはりショックが大きかったのだろう。何とか見つけて、元気づけてあげないと。でも、どうやって?
「上村君が名香野先輩に、宇宙科学会の活動に専念させるためにやったんじゃないかな」
沈黙を破るように朋夏が口に出した答えは、僕も薄々感じていることだった。名香野先輩に委員会活動を休んでくださいと頼んでも、簡単にうんとは言わないだろう。名香野先輩に対する敬意と忠誠心の厚い上村なら、あえて退路を断つという選択肢はありうるし、それが最大限、好意的な見方だ。僕もそう信じたいところなのだが、別の考えがそれを否定させる。
「私は、その理由は弱いと思います」
僕の意見を代弁したのは、姉さん大好きの湖景ちゃんだ。珍しく、本気で上村に腹を立てているらしい。
「LMG大会はわずか一月後ですし、私たちが予選会に勝てるかも不明です。宇宙科学会の大会後の活動計画も、何も決まっていません。中央執行委員長は学園規則で再任が禁じられていますので、解任された以上、復帰の道も断たれています。本当に姉さんのためを思うなら、上村さんが夏休みの一か月だけ、姉さんの仕事を代わればいいだけの話じゃないですか!」
その通りだ。委員長の仕事を他の委員に振る労苦を惜しんだとしても、学園中を混乱に陥らせてまで、名香野先輩を追い詰める必要はどこにもない。先輩を飛行機作りに専念させたいなら、もっと賢い方法があるはずだ。
もう一つ気になるのは、日曜日に中央執行委員会室に行った時の、あの妙な居心地の悪さだ。全学園選りすぐりのエリートが集まるはずの中央執行委員会に、人を人と思わない生徒が屯している。名香野先輩が中央執行委員会室で苦労している時には、一度も姿を見なかった連中だ。
クーデターを計画したのが上村なら、それに乗ったのはあいつらだと、僕は確信している。逆に上村は担がれただけという可能性もある。しかし、ああいう連中と上村の気が合うとも思えない。あるいは上村に対する僕の評価が、間違っているのか。
僕は今やはっきりと、上村を殴ったことを後悔していた。理由はどうあれ、感情にまかせて拳を振り下ろす前に、きちんと質すべきだった。親友を自認していた僕なら、一時の怒りを押し殺してでも、やらねばならなかったはずだ。
しかし、僕と上村との絶縁はもはや避けがたく、今から理由を聞いても無駄だろう。今さらながら、拳が痛む。会長の言う通り、浅慮に任せた暴力は、解決策を何も生まなかった。
その時、湖景ちゃんの携帯電話が鳴った。ゆるゆると携帯の画面に視線を落とした湖景ちゃんの顔色が、すぐに変わった。
あわてて携帯電話を握りなおすと、「もしもし、姉さん? どこにいるの?」と矢継ぎ早に尋ねた。僕と朋夏は湖景ちゃんの隣に駆け寄り、顔を寄せるように携帯に耳をつけた。
「格納庫よ。どうして誰も来ないの? 作業を始めるわよ」
「格納庫……」
呆然とする湖景ちゃんから、僕が携帯を奪い取った。
「名香野先輩! 大丈夫なんですか?」
「……心配している暇があったら、早く来なさい」
それだけ言うと、電話は切れた。
僕たちは急いで、旧校舎に向かった。電車を降りてからも駆け足に近いスピードで坂を上り、朋夏とほぼ同時に格納庫に駆け込んだ。
「名香野先輩! 会長!」
格納庫では、名香野先輩がモーターのギヤ比を調整してデータを取っている真っ最中だった。会長はコックピットに体を埋めて、どうやらモーターの出力を調整しているらしい。
「ソラくん、遅いー」
会長がいつもと変わらない顔とのんびりした口調で、僕を呼んだ。その時、駆け足で遅れをとった湖景ちゃんが、格納庫に姿を現した。
「姉さん!」
湖景ちゃんは、ほとんど半べそをかきながら、名香野先輩の胸に一直線に飛び込んでいった。
「湖景……ごめんなさい。心配かけちゃったわね。朝から携帯が鳴りっぱなしで、鬱陶しいから切っちゃっていたのよ」
「姉さん、私、姉さんのために何にもできなくて……」
「いいのよ、あなたがそうして泣いてくれるだけで、私は十分だから」
頭を埋めてわんわん泣き出した湖景ちゃんの栗色の頭を、名香野先輩が優しくなでていた。
「先輩……本当に大丈夫、なんですか?」
心配そうに尋ねたのは、朋夏だ。
「ええ。私も最近は委員会で力になれなかったし、かえってこれでよかったと思っているの」
ウソだ。それは、すぐにわかった。
一言一言に力を込める気丈さが、痛々しかった。先輩は今回のクーデターで、とても傷ついている。しかし、それを僕たちに見せようとしない。委員会室で、誰からも期待される委員長であり続けようとしたのと、同じように。
「委員会も宇宙科学会も中途半端だったから、飛行機の欠点を見過ごしたんだわ。それで宮前さんを危険に晒した……本当に悪かったと思っている」
そして、責任を口にする。自分の苦労だけで、手一杯のはずなのに。
「そんな……あの、名香野先輩が元気だったら、あたしはいいんです!」
朋夏があっけらかんと言った。朋夏は気づいていない。でも人の建前と本音に鈍感なのは、朋夏の美点なのだ。
僕は不意に、上から肩をたたかれた。コックピットから、会長がにやにやしながら僕を見下ろしていた。
「ソラくん、ヒナちゃんのことは、わかってあげているみたいだね?」
「え?……ええ、でも上村の件では、失敗しましたから」
「えらいえらい。やっぱりソラくんは、私が見込んだだけのことはある」
会長はまた一人で、うんうんうなずいていた。学会棟の前で見せた冷たい視線は、どこにもない。
「会長。僕のこと、怒ってないんですか?」
「怒ってるよ。すごく」
シレっとして、会長は言った。
「怒ってるけど、その様子だと、ソラくんは何が悪かったかわかったみたい。なら、もう怒る必要はないじゃない」
会長は、僕の上村に対する軽率な行動に怒り、名香野先輩が格納庫に現れるのを予期していた。そして、部室で手をこまぬく僕らを尻目に、一人で名香野先輩のフォローをしていた。
「でも、このままでいいんでしょうか、会長?」
名香野先輩の、空元気のことだ。このまま無理をさせて、よいのだろうか。そして上村に、僕はこれからどう接すればいいのだろう。非を認めて謝る、というのも少し違う気がする。会長はそんな僕を見ると、コックピットから「よいしょ」と両腕を出し、行儀悪く両ひじで頬杖をついて僕を眺め回した。
「ミノくんのことはたぶん、放っておいて大丈夫だよ。ヒナちゃんは……とても強い子だから。あ、でもソラくんの今後のサポートには期待、かな?」
上村も名香野先輩も大変な立場のはずだと思うのだが、会長は、事もなげに言った。会長を知らない人が見れば、とてもいい加減で冷たい人に見えるだろう。
だけど、僕は知っている。会長はいつも、必要以上に説明はしない。しかし、ここにいる誰よりも、未来が見えている。それはつまり、僕たちよりいつも今の事情がよく見えている、という証拠なのだ。僕はその点に関しては、誰よりも古賀沙夜子先輩という人を、強く信頼していた。